銀座界隈散歩道

202601


銀座とその周辺は、今年も話題のイベントがございます。
ちょっと寄ってみませんか?

■競走馬グッズ『UMAbred』POPUP(銀座博品館)
実在の競走馬・引退馬を「UMA」(ウマのようなモチモチアニマル)として描きおろすグッズブランド「UMAbred」は12/26(金)~2/1(日)の期間、銀座博品館にてPOPUPを開催。
今回は2025年にPOPUPにて発売したアイテムの一部を販売。
また年明け1月2日からは、「午年」となる2026年を記念して「UMA年」グッズを特別販売。
全て鷹月ナト先生完全新規描き下ろしイラストを用いたグッズとなっております。

■リサとガスパール25周年記念イベント(松屋銀座8階イベントスクエア)
2026年1月5日(月)からにて開催の「リサとガスパール POP UP マルシェ in GINZA」では、原作者ゲオルグ・ハレンスレーベン氏が描き下ろした“世界に1枚ずつしかない”原画25点の展示と特別販売を行います!あなただけの「リサとガスパール」の世界を手にいれるチャンスです。

■KDDIが神社「繋宮(つなぐう)」を銀座のど真ん中に建立
“未来をつなぐデジタル神社”が出現(GINZA 456)
銀座のKDDIのブランド体験施設「GINZA 456 Created by KDDI」で神社を想起させる展示イベントが開催されています。
エントランスに朱塗りの鳥居が出現していますよ。

■銀座の夜空に3DマッピングLEDイルミネーション(銀座三越9階 銀座テラス/テラスガーデン)
2025年12月6日(土)~2026年2月17日(火)の期間、『GINZA Winter Illumination』を実施いたします。
冬の銀座に訪れる皆さまに、光が寄り添う穏やかなひとときをお届けいたします。

■第2回 現代日本画10人展」(2026/1/9?23)(永井画廊)

■「寒中水浴大会(寒中禊)」(2026/1/11)(鐵砲洲稲荷神社)

以上、気の付いたイベントをリストアップしてみました。
もちろん銀座コットンクラブは店内を温かくしてお待ち申し上げております♪

202512


今年も銀座でイルミネーションが始まっています。
ところで、銀座のイルミネーションがいつ始まったのか?調べてみましたらナント!
明治33年(1900年)に明治屋さんが「クリスマス飾り」を始めたことがきっかけで広まったそうです。
日本のイルミネーション文化の原点とも言える出来事ですね。

きっかけは、明治屋が銀座で「クリスマス飾り」を始めたのが、これまた日本でイルミネーションが広まる最初のきっかけとされているそうです。
当時の銀座にはすでにガス燈が85基設置されており、夜の街を照らす文化が根付き始めていました。
明治屋の飾りは人々の注目を集め、他の店舗にも波及。銀座の街全体が光で彩られるようになっていきました。
そして明治時代後期から大正時代にかけて、銀座は「光の街」としてのイメージを確立。
クリスマスシーズンには電飾が増え、街の雰囲気を一変させる演出が定着していったのですね。

銀座コットンはキラキラの先で、店内を温かくしてお待ち申し上げております。

202511


かちどき橋辺りの散歩には涼しくて良い季節になり・・・と書き出そうと思いましたら先日から突然寒くなり、富士の高嶺には平年より半月も早く冠雪しているのが見えるようになりました。

そういえば「かちどきばし」にはいろんな表記がありますよね?
調べてみましたら
「勝鬨橋」は、歴史的・技術的な文脈で
「かちどき橋」は、観光・案内・ブログで
「かちどきばし」は、読み仮名・補足 →
「勝どき橋」は、地名との混同や略記で、非公式なのだそうですよ。
橋を渡った向こう側の地名が「勝どき」なので、これと混同してしまわないように表記を変えているんだとか?

そもそも「鬨」という漢字は現代ではあまり使われませんよね。戦国戦記ものがお好きな御仁は別として。
とにかく読みにくいため、観光客や若い世代に向けてひらがな表記が好まれる傾向があるのだとか。
橋のたもとにある「かちどき橋の資料館」も、ひらがな表記を採用しており、公式サイトや東京都建設局の案内でもこの表記が使われています。

話しは変わりますが、最後にハの字に開いたのが1970年11月29日。(ああもう55年も経ってしまったのですね)
1980年には電力供給も停止され、現在は完全に固定されているんですね。
もう一度動かすには億単位の経費が掛かるらしいです。

でもいくつかの作品の中で橋が、架空ですが開きました。
・小説『ひらけ!勝鬨橋』(島田荘司)
 老人ホームの土地を巡る攻防の中で、勝鬨橋が開くシーンが描かれる。

・まんが『こちら葛飾区亀有公園前派出所』
 両津勘吉が少年時代の勝鬨橋にまつわる思い出を語る。

壊されちゃった話もございます。
怪獣映画『ゴジラ』ではゴジラに勝鬨橋がひっくり返され、
『帰ってきたウルトラマン』では怪獣の戦いに巻き込まれて破壊され、
映画『地震列島』や『日本沈没』では地震で橋がねじれて崩壊・・・・

ご安心ください、かちどき橋は今日も東京を抱える大動脈として健在でございます。


202510


瑶子ママが最近夢中になっている歌舞伎座を左に見ながら、海に向かって晴海通りを銀座の喧騒を背に、築地の市場跡を横目に進むにつれ、街の空気が少しずつ変わっていくのを感じます。ビルの谷間から空が広がり、隅田川の気配が近づいてくると、やがて堂々とした姿で現れるのが「かちどき橋」です。

この橋を渡るたび、私はいつも不思議な感覚に包まれます。東京という街が歩んできた激動の歴史を静かに見守り続けてきた、生きているかのような存在でもあり、銀座と埋立地を隔てる一種の結界のようにも思えるからです。
かちどき橋が架けられたのは、今から約90年前の1940年。第二次世界大戦の開戦が迫る緊迫した時代でした。当時、この一帯は東京港の物流の要であり、まだまだ船が物流のスターの座にあった当時は大型船が頻繁に行き交っていたそうです。そのため、橋を船が通るたびに橋桁が跳ね上がり、ハの字に開く跳開橋という珍しい構造が採用されたのですね。

橋の袂にたたずむと、戦時中の緊迫した空気、戦後の復興期の喧騒、そして現代の穏やかな風景が、動画のように脳裏をよぎります。きっと知らず知らずのうちに、古い映画や歴史的なTV映像で銀座周辺の景色の移り変わりを見ていたからでしょうね。

橋の完成からわずか数年で日本は終戦を迎え、戦後の復興期にかちどき橋は東京の経済を支える大動脈となりました。物流トラックがひっきりなしに行き交い、多くの人々がこの橋を渡って通勤や通学をしました。
気が付けば時代は移り変わり、隅田川を行き交う大型船は次第に少なくなりました。そして、かちどき橋の跳開部が最後に開いたのは、1970年。それ以降、橋は開かれることなく、その役目を終えました。それでも、橋の心臓部であるはずの跳開部はいまでも残され、静かにその歴史を物語っています。

東京という街が歩んできた歴史、人々の暮らし、そして未来への希望を象徴する特別な場所。散歩の途中で立ち止まり、その力強い姿を見つめ、橋が語りかける過去の物語に耳を傾けてみながらの散歩はいかがでしょうか。

続きます。

202509


今ではかなり少なくなっているようですが、日本中にある「〇〇銀座」商店街。
その中でも東銀座から都営浅草線一本で行かれる「戸越銀座」は、意外と私たちの銀座と深い繋がりがあるようです。
地下鉄戸越駅の階段を上がると、ふわりと漂う揚げ物の香りと、どこか懐かしい商店街のざわめきが耳に届きます。
「戸越銀座商店街」は関東でも屈指の長さを誇る、約1.3kmの商店街が東西に伸びているのですが、その真ん中辺りに位置する地下鉄戸越駅から東西どちらの方向に歩き始めても気づくことがあります。
戸越銀座は谷底状の地形に沿って形成されており、周囲に「清水坂」「八幡坂」「宮前坂」など、坂の名を冠した地名が点在していることに気づきます。つまり周囲の坂を下った先に広がる商業地なのです。この水捌けの悪い地形が気になるのです。
「ここって昔は川だったんじゃないの?」と疑いたくもなります。

実はこの商店街の道は、かつて銀座から運ばれてきた瓦礫のレンガが敷かれていたそうです。
明治5年(1872年)、木造建築が多かった銀座は大火に見舞われました。焼け野原となったこの地を、政府は西洋風の煉瓦造りで復興しようとします。ロンドンのリージェント・ストリートを模した街並みは、文明開化の象徴として建設されました。
ところがしかし、関東大震災(1923年)でその煉瓦街は壊滅。その復興の過程で、銀座の道路はアスファルト化され、煉瓦は大量の瓦礫となって行き場を失います。
その頃、低地に存在する戸越の商店街は、雨が降るたびにぬかるみ、排水にも悩まされていました。そんな折、銀座の瓦礫レンガの処分に困っていたという話を聞きつけた戸越の商店主たちは、リヤカーを引いて銀座まで赴き、不要となった煉瓦を譲り受けたのです。
そのレンガを商店街の通りに敷き詰めたことで、戸越は震災からいち早く復興を遂げました。この縁を記念して、商店街は「戸越銀座」と名付けられたということで、銀座の煉瓦がまさに救世主となったわけです。

しながわ観光協会や戸越銀座商店街の公式アーカイブでも、「全国に300以上ある〇〇銀座の元祖」と明記されています。つまり、銀座の名を冠した商店街の先駆けとして、戸越銀座が全国に広まる「銀座ブランド」の火付け役となったのです。

ちなみに、戸越という地名は「江戸を越える村」に由来すると言われています。江戸から西へ向かう街道を越えた先にあることから「戸越え」と呼ばれるようになったという説が残っています。他にも「谷戸(やと)」の「戸」が省略された地形由来説もあります。

銀座の煉瓦街は文明開化の象徴として生まれ、震災で瓦礫となり、戸越銀座の復興を支えました。そして戸越銀座は、その名に「銀座」を冠することで、商業の賑わいと誇りを受け継いだのですね。
今の商店街を歩くと、揚げたてのコロッケや焼き鳥の香りに誘われながら、足元にはかつて銀座を彩った煉瓦の記憶が静かに眠っています。

戸越銀座からのお帰りは、同じ都営銀座線をご利用ください。
新橋駅で降りると銀座コットンクラブはすぐ近くでございます

202508


この猛暑の中、散歩なんかできるものか!と怒られそうなのですが・・・
今から遡ること55年前の「1970年の8月2日(日)」に、銀座でというか日本で初めての本格的歩行者天国が始まりました。
当時の都知事の提唱で、新宿・池袋・浅草と共に銀座を含む4地区で初めて実施されたそうです。都内の4大繁華街の目抜き通りで、午前10時から午後5時まで車道を歩行者に開放する試みがされました。
この日は日曜日(え?土曜日じゃないの?)でしたが、銀座では通常日曜日の10倍の23万人の人出だったそうです。
真夏の炎天下(今よりは涼しかったのでしょうけど)ということもあったことから、植木やビーチパラソルや縁台、ビニール製プールまでもが登場し、道路上に座り込んで弁当を広げる若者もいたという、それまでの中央通りとは異なる非日常的な光景に映ったようです。

そうそう!銀座では「ホリデープロムナード」と名付けられました。
毎年8月の第1日曜日にイベントが開催され、現在も続いているのは銀座だけだそうです。2007年からは「ゆかたで銀ぶら」に名を変えて夏らしい演出が加わり、打ち水イベントも行われています。

本年も、「ゆかたで銀ぶら 2025」の開催が決定しています。
◇令和7年8月2日(土)16時~20時半
◇会場:銀座通り1丁目~8丁目
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今年の見どころは、銀座通りに櫓が立ち並ぶ「大銀座盆踊り」と、選りすぐりの銘店が軒を連ねる「銀座銘店屋台」。昨年に引き続き、銀座の街並みとともに夏の風情をご堪能いただける多彩な催しをご用意しております。
さらに本年は、開催時間を拡大し、より多くの皆さまにお楽しみいただける内容となっております。
涼やかな浴衣に身を包み、銀座の夏夜に風情を感じていただきながら、心に残る夏のひとときをお過ごしいただけましたら幸いです。
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とのことです。

202507


いつの頃からだったでしょうか。
晴海通り三原橋のアーチ状にこんもりとした道路の膨らみがあったのが消えて、いつの間にかまっ平になってしまいました。
橋と名のついた場所ですが、ここに三十間堀川という運河があったのは昭和24年までだったそうです。

以前、話題に上げさせて頂きましたが、江戸時代初期まであって埋め立てられてしまった「江戸前半島」は、現在の銀座中央道りを尾根とした地形でした。江戸の町の物流をスムースにするため、その江戸前半島の東側海岸線に沿って開削されたのが三十間堀川。
実際は「堀」と付く名の通りで、江戸城を護る堀の役目も持たせていました。なので、敵が攻めて来たらいつでも破壊できる木の橋ばかりが架けられることになります。その一つが三原橋。
開削当初は幅が約30間(約55m)あったために三十間堀と呼ばれましたが、文政11年(1828年)には両岸の河岸地が広げられ、堀幅は十九間に狭められたそうです。その頃から銀座周辺は土地不足だったのですね。

戦後、東京の中心地である銀座に残された瓦礫処理を急ぐようGHQから東京都へ命令があり、都は手近な三十間堀への残土投棄を決定(猛烈な反対運動があったそうですが)し、昭和24年7月には埋立が完了し、水路としての三十間堀川は完全に消滅。川ではないので暗渠にもならなかったのですね。
記憶に残っていた「アーチ状の盛り上がり」は、都電の重量に耐えられるための構造だったようです。

岡っ引きが持っている十手は「じゅって」ではなく「じって」。三十間堀川も「さんじっけんほりかわ」と言えば江戸っ子になった気分にならないでしょうか?

202506


毎日のように銀座に居りますと、銀座が日々変貌していくことに気持ちが慣れ過ぎてしまいます。
改めて当店が誕生してからの30年間の銀座を思い起こしてみますと、ある種の伝統を守りつつ時代の変化に柔軟に対応し、
「高級」「洗練」「文化」のイメージを保ちつつも、より開かれた街へ、東京の顔として存在感を維持して来たように思えます。

1991年にカルティエが進出したことを皮切りに、グッチ、ルイ・ヴィトン、シャネル、セリーヌなどの高級ブランドの旗艦店が次々と出店していくにつれ、日本一の商業ブランドから世界の銀座へと出世していくようにも見えました。
その一方で、ディスカウントストアや、大型量販店やユニクロさん等の進出により、若年層の集客も進みました。

とりわけ「東急プラザ銀座」「GINZA SIX」のオープンは銀座の新しいランドマークとなりました。観世能楽堂などの文化施設がGINZA SIX内に設置されましたね。

来るものもあれば去るものもございます。
築地市場の移転には、8丁目が一番近いということもあったせいでしょうか?身近に感じていた「粋(活)」が離れて行ってしまう寂しさもございました。

そういえば、以前は当たり前のように立っていた銀座の電柱が地下に入って姿を消しました。
私たちの並木通りは歩道の敷石がブラジル産の赤御影石に変更され、街路樹はプラタナスからリンデンに植え替わるなど、街の景観がすっきりと整備されました。今では当時の写真でも見せられないと、以前の並木通りを思い出せないくらいです(笑)
8丁目を包み込むように走っていた銀座KK線道路が本年4月より廃止され、今後数年を掛けて遊歩道に生まれ変わろうとしています。

もうキリがございませんね。
1995年に開店以来、銀座コットンクラブにも多少の変遷はございましたが、おかげさまで「大人の癒し」と「楽しい雰囲気」は、素晴らしいお客様方とご一緒に作り上げて参ることができました。

5年前の25周年は、日本中が抱えていた試練の中で仕方なくやり過ごしてしまいました。あの時もその後も、お客様から頂きましたご心配や励ましのお言葉の数々は忘れられません。
おかげさまで、今日も銀座コットンクラブは、愚直に癒しの空間を続けさせて頂きます。

202505


いつからなのでしょうか?地下鉄豊洲駅で乗降しますと、ホームの造りが不自然といいますか、工事中でもないのに板張りのところがあったり妙にホームの幅が広かったり・・・

その理由が分かりました。
ご存知の方も多いかと存じますが、つい先日(4月17日)発表になったのですが、有楽町線が豊洲で分岐して北上し、住吉駅で半蔵門線と合流した後、東武スカイツリー戦に乗り入れて伊勢崎線(日光線)と直通運転が実現することが正式に決まりました。
いつぞやこのコラムでも「こんな計画があります」とご紹介した話が本決まりになったのですね。

有楽町線延伸線の起点となる豊洲駅には既に延伸線用のスペースが存在していて、和光市方面と新木場方面の各ホームの間には、延伸線用に構築された2・3番線の線路があるそうなのですが、現在は豊洲駅の混雑緩和のため、線路が板で覆われて通路に転用されている状態・・・なのでそうです。

2030年代半ばに開通し、住吉駅との間に「枝川駅」と「千石駅」の2つの新駅が開設されるとのことです。

さてそうなりますと、春日部などの埼玉県北部方面のお客様が、ご来店の後にご帰宅されるのに便利になりますし、そのまま日光での湯あみにお出かけも宜しいかと!
妄想は尽きませんが、お客様もコットンのスタッフも元気でその日を迎えたいものです。

202504


以前にも話題にさせて頂きましたが、銀座エリアを高架で抜けていく京橋~汐留の東京高速道路、通称「KK線」が、本年4月5日をもって廃止されます。
KK線は、都心環状線の京橋JCTから西へ分岐し、銀座・新橋といった繁華街を経由して汐留JCTへ戻ってくる、総延長がたった2kmの高架路線です。1966年に全通し、まもなく60年を迎えようかという古参の道路です。

元々は江戸城の堀を兼ねた運河でした。
それをを埋め立てて、幅と高さの揃ったビルを幾つも建設し、その屋上同士を橋渡しするように繋げて出来た高架道路です。
「銀座ナイン1号館」「銀座ファイブ」「西銀座デパート」「西銀座チャンスセンター」「銀座インズ1号館」といった銀座っ子にはお馴染みの商業施設が、それらのビルのモールになっています。
首都高とは違ってKK線は通行料が無料。というのも、高架下のテナントからの収入で運営を賄っているからです。

そんなKK線が廃止される理由は、並行して八重洲~京橋を地下トンネルをつなぐ「新京橋連結路」が新たに建設されるからです。
 都心環状線のルートは神田橋~江戸橋JCT~京橋ですが、日本橋川区間の地下化プロジェクトにともなって江戸橋JCTのランプが廃止予定。その代替ルートとして、神田橋~八重洲~京橋が新たな“都心環状線”の役割を担うこととなったのです。

この大規模な地下化によって、日本橋の上に建設されていた首都高も廃止され、日本橋に青空が戻って来るという嬉しいニュースにも繋がって参ります。

さて、廃止後のKK線の高架は撤去されず「空中歩道」として再生される予定だそうです。都心のビル群の中を歩く、不思議で新鮮な体験ができる空間に生まれ変わります。
夕刻のそぞろ歩きを楽しんだ後には、銀座コットンクラブがお待ち申し上げております。

202503


銀座線といえば、あの黄色い地下鉄ですよね。
最近は新型車も増えてかっこよくなったものです。
今日はもう一つの銀座線のお話です。

明治15年、新橋と日本橋の間に東京馬車鉄道が開業しました。同年秋には日本橋→上野→浅草→日本橋という環状線も開設されました。
当時の乗務員は運転士ではなく馭者と車掌ですね。
馬車鉄道のレールには断面が凹の形状が使われており、当時主流だった「人力車」「荷車」「一般の馬車」の邪魔にならない配慮がなされていました。
停留所は基本的に汐留、新橋、終着地のみで、途中の停留所は存在せず利用者が乗りたいところで手を上げれば乗車。降りたい所を車掌に言えば下車できたらしいです。
新橋から全区間の所要時間は2時間程度で、新橋から浅草橋経由浅草広小路までは46分、新橋から万世橋経由浅草広小路まで42分、浅草広小路から上野広小路まで16分であったそうです。
料金は1区間で現代換算で1500円くらいで、全区間か4500円・・・ちょっと高いですね。

営業的には好調でしたが、馬という生き物ですから糞尿や世話の問題が付きまといます。清掃する人員も必要でしたし、凹型のレールには小石やゴミ等の異物が挟まって問題になっていました。
利用数が多くなるにつれて道路や線路の痛みも問題視されるようになると、既に電車に置き換わっていた欧州のお手本だけでなく、日本でも京都・名古屋・川崎先などでに開業していたこともあり、明治37年には路面電車に置き換わりました。
それが後の都電の前身となります。
路線は都電本通線・都電金杉線および都電品川線となり、一般には「銀座線」の通称でも呼ばれることになります。

さて、馬車鉄道は22年間で姿を消すことになりましたが、約180頭のお馬さん達がその後に幸せであったことを祈るばかりです。

202502


当コットンクラブからは対角線上のような位置に立つ「銀座奥野ビル」は、昭和初期の歴史的な建物であり、銀座の中でもひときわ目を引く存在です。

銀座のメインストリートである中央通りから少し外れると、銀座奥野ビルが見えてきます。周辺には、昔ながらのレトロなカフェや、アンティークショップが点在しており、時間を忘れて歩きながら街を楽しむことができます。ビルの前には、銀座の喧騒を感じさせない静かな空気が流れており、周囲の高層ビル群と一線を画す落ち着いた雰囲気が漂っています。

ビル内に足を踏み入れると、さらにその魅力が感じられます。内部に広がるレトロなアーケード。ビル内部は店舗が並んでおり、いずれも昭和の時代を感じさせる風情を持つ店ばかりです。ビルの中に入ると、時が止まったような空間に包まれ、現代の銀座の喧騒から離れて、静かなひとときを過ごすことができます。、アートやアンティークに関連した店舗が並んでおり、昭和の時代を感じさせるアイテムが多く取り扱われています。こうした店で何気なく立ち寄り、素敵な品を見つけることができるのも、このビルならではの楽しみです。

建物は1932年に竣工し、設計を担当したのは日本の近代建築を代表する建築家、吉田鉄郎です。銀座という洗練されたエリアにあって、当時としては新しいデザインとモダンな意匠を取り入れたこのビルは、今でもその独特な美しさを保ち続けています。

このビルの最大の特徴は、その外観にあります。外壁には、洗練されたアール・デコ調のデザインが施され、特に石材を使ったファサードが目を引きます。アール・デコの影響を受けた細かな装飾が施されており、当時のモダンな建築スタイルが感じられます。外観は、今でこそ周囲の高層ビル群に囲まれていますが、銀座の街並みの中で異彩を放っています。

銀座奥野ビルが建てられた時代は、まさに日本が近代化を進め、西洋の文化や技術を取り入れながら発展していった時期です。そのため、このビルには西洋の建築様式を取り入れつつも、日本的な要素を感じさせるデザインが施されています。例えば、ビルのファサードに見られる装飾や、使用されている素材には、当時の日本の職人技が息づいており、その歴史的価値は今もなお高く評価されています。

毎月6日に見学会が開催されていることがあります。これは一般の人々がビルの歴史や建築様式を学びながら、普段は入ることができない内部を見学できる貴重な機会です。特に、このビルはその独特なデザインや昭和初期の建築様式が魅力的で、多くの建築ファンや歴史愛好者にとって興味深い場所です。

見学会では、ビルの歴史や建物の設計者である吉田鉄郎の仕事、またアール・デコ様式を取り入れたデザインについて学べる解説が行われ。また、普段は入ることができない内部の様子も見ることができ、建物のアーケード部分や、古き良き時代の雰囲気を感じられる店舗など、さまざまな空間が紹介されます。銀座奥野ビルの建築的な魅力に加え、ビル内のギャラリーやアートショップなども見どころです。

見学会は通常、事前予約が必要な場合が多いので、公式サイトや主催者からの情報をチェックし、予約を行うことをお勧めします。また、見学会の開催日時や内容は変更される可能性があるため、定期的に開催される日程を確認することが重要です。
単なる観光スポットとしての銀座奥野ビルではなく、その背後にある歴史や建築に対する理解を深める貴重なチャンスです。建築に興味がある方や、銀座という街の歴史的背景を知りたい方には非常に価値のある体験となるでしょう。

もし見学会に参加する機会があれば、銀座の街並みとともに、奥野ビルの魅力をじっくりと堪能してください。

202501


新年をどちらで迎えられましたでしょうか?
年越しと言えば「除夜の鐘」という方もいらっしゃるでしょう。
年末の喧騒を終えた大晦日の深夜。静かな住宅街に、田園地帯の野山に染み渡る鐘の音に、テレビの音を消して窓を開けて耳を澄ませた経験をお持ちの方も多いかと。

中国の宋代の禅宗寺院の習慣に由来するそうで、日本では室町時代に大晦日から元旦にかけての除夜に欠かせない行事になったそうです。
禅寺では年の変わり目に鬼門(北東方向)からの邪気を払うために行われていたそうです。

さて、銀座でも除夜の鐘は聴けるのでしょうか?
ということで調べてみましたら、築地本願寺さんで法要に参加された方の中から整理券を350組に発券するそうですよ。
「寒いし深夜の交通機関も無いし」という方もご安心下さい。なんとYOUTUBEでリアルタイム配信もされるそうです。
築地本願寺さんのホームページに書いてありますので、359日後にチャレンジされてはいかがでしょうか?
1つだけ難点なのは、「その日はコットンクラブはお休み」でございますので、同伴もお客様のお迎えもできないのでございます(ちょっと残念)

※本年も皆様のご健勝とお仕事の発展を心よりお祈り申し上げております。

202412


「界隈」が流行語大賞にノミネートされたそうですね。
従来は「その辺り」などの地理的な範囲を指していたのですが、最近(特にZ世代)では「共通の人びと」を指すようになっているのだそうです。仲間とか近い存在などの意味合いで使われているとかいないとか?
このコラムのタイトルが「界隈」なのは、銀座の今と昔を自由に行き来したいと考えたからなので、流行語という栄枯盛衰の中に巻き込まれるのは心穏やかではいられません→大袈裟ですね(笑)
除夜の鐘をきく前に「祇園精舎の鐘の声」が聞こえて参ります(個人の感想です)

さて、今年も銀座ではイルミネーションが通りを彩りはじめました。
コットンクラブにおいでになる前に、イルミネーションの町をそぞろ歩きに寄ってらしてはいかがでしょうか?
・ちなみに
・並木通り(1~4丁目)
 1月13日まで、16時~23時まで
・並木通り(5~8丁目)
 1月15日まで、16時30分~24時
までとなっております。

楽し気な光の先で、スタッフ一同お待ち申し上げております。

202411


今さら?と言われそうですが、ゆりかもめに乗って豊洲市場を観て参りました。
当コットンクラブが開店した頃の銀座8丁目は、新橋にも近く、帝国ホテルの向こう側に日比谷公園、その向こう側には皇居が。
海の方に目を転じれば、8丁目と接する築地市場の活気もまた、当コットンクラブの心意気に少なからず気持ちの高揚を与てくれておりました。
そんな築地市場の存在でしたから、移転してしまった時には少しだけ寂しさを覚えたものです。

さて豊洲に行ってみますと・・・まぁとにかく広い!スマホの地図で見ただけでも5倍の面積はありそうです。周辺の道路も市場内の導線も広い!!
全エリアの見学コースを歩き回りましたら、数キロも歩いたような気がしました。
見学客と従業員さんのエリアがきっちりと分けられていて、競りの様子などはガラス窓を通して見ることができます。
だた豊洲が活気付くのは早朝ですので、昼過ぎに行ってもガラーンとしていると思われます。見学者の半数は外国の観光客でしたので、おそらくは早朝から起こされて観光バスでいらしたのでしょうね。

二つ感じたことがありました。
ひとつは、豊洲へ移転したことの必然性。
美しく整然としたレイアウトや人の動きを見ていて「市場の活気=新鮮の代名詞」といった感覚はもう過去の光景なのだなと思わずにはいられませんでした。
あらゆる職種で人手不足になってゆく中で、「スマートに新鮮に」という命題で動いていたのですね。

二つ目は豊洲の飲食店(場外を含む)の価格設定が、あまり私たちの財布に優しくないなということ。
インバウンドというのでしょうか?円安の恩恵を求めていらっしゃる外国人の懐に的を絞っているようで、外国人のお客様がお箸を使って日本の文化を楽しんでいらっしゃいました。

あ、それともう一つ!
上にも書きましたが、豊洲市場の活動のピークは早朝ですので、同伴のデートコースには不向きのようでございます。

202410


江戸時代の地図を見ていますと、数寄屋橋辺りを有楽原(うらくはら)と呼ばれていたことが書かれています。
そういえば今年の1月から3月でしたか?六本木ミッドタウン辺りを歩いていましたら、「特別展 大名茶人 織田有楽斎(おだ うらくさい)」の案内があちこちにありました。

織田有楽斎の本名は織田長益(おだながます)で、織田信長の13歳年下の弟であり、戦国を生き抜いた武将でした。
武将としては「甲州攻め」「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦いでは東軍として」でめざましい武功を上げ、家康と秀吉の講和では折衝役を担う、という類まれに優秀な武将であったようです。
大阪夏の陣までは豊臣の家臣というより、出仕(勤め人)というかたちで淀殿(秀吉の側室)を補佐していましたが、大阪城内での主戦論に反対意見を言っても賛同を得られなかったことから辞任し、武将としての人生を終結しました。

大坂を退去した後は京都に隠棲して茶の湯に専念し趣味に生きました。まぁ立場上そうしないと自分も家族も生命の危険から逃れられなかったのでしょう。
生前の千利休から直々に茶道を学び、利休十哲の一人にも数えられる茶人として「織田有楽斎」を名乗り、後には自ら茶道有楽流を創始します。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されています。

さてお隣の有楽町という町名は、
長益の号「有楽」に由来し、茶人としても名をはせた有楽は関ヶ原の戦いのあと、徳川方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたとの説がありまして、一部ではまだそれを信じておられる御仁もいらっしゃるようですが。
これは文字の類似からきた俗説であり、有楽斎がここに住んだという記録はないのです。
今の有楽町は、明治時代になって隣の永楽町とともに成立した町名であり、「・・だったらいいな」という程度のまことしやかな伝聞でした。

昔どこかで聞かされた「有楽町(ゆうらくちょう)と有楽原(うらくはら)」についての伝聞が、何らの関係もないとケリをつけさせて頂きました。
不二家さんとソニープラザの間辺りを通ることがございましたら、そこが有楽原という話題からコットンクラブを思い出して頂けますように!

202409


4年に一度のオリ・パラは始まると話題になりますのが金・銀・銅。
でもメダルの色ではございません。銀座っ子としては銀座があったのだから金座や銅座もあったのではないかと、そっちが気になります。

そもそも金銀銅の後に付いてる「座」について調べてみますと、これがまた曖昧で広い意味に使われていまして、最初(千年以上前)は商売などの協同組合が始まりのようです。いつしかその共同体が権力を持つようになり、安土桃山時代に「楽市・楽座」が始まるまで数百年間の「座」はまつりごとを脅かすほどの強い存在だったようです。
その一方で固定された場所ではなく、人が集まれば「座」と見なす文化も同時に醸成されていました。野原の真ん中でも人が集まって輪をつくれば「車座」ですね。
また芸能技能関係でも「座」が使われることもあり、旅の一座などの集団も差す文化も出来上がっていました。

「銅座」というのは、銅を扱う商人の座の名称として鎌倉時代からありましたが、江戸時代になってからの「金座」や「銀座」と並ぶ造幣局のような役割としての「銅座」は大阪と長崎に存在していました。お江戸じゃなかったのですね。
長崎市の歓楽街である「銅座町」にはなんだか親近感を覚えます(笑)

金座のあった場所は明治になってから今日まで日本銀行になっています。
そして我らが銀座の跡地はコットンクラブから3キロほど北に位置する今の人形町1丁目で、今では跡形もなく区画整理されてしまいました。
ああやっぱり銀より金の方が上位なんですね。しみじみ・・・

あくまでもスタッフの個人的感想ですが、世間一般言うところの「銀座」がこちらに移ってきて百数十年。今さら「本当の銀座」論争なんて起きないでほしいものです。

202408


銀座からまた昭和の名物ビルが消えていきました。
5丁目に建つ瀟洒で異彩を放っていた外観の「銀座コア」
1971年に銀座初のファッションビルとして開館以来、52年間親しまれてきたあのコアが建て替えの為に3月に閉館しました。

開店当時の銀座は販売力や発信力も含めて、全国に「〇〇銀座」が乱立するほどの日本の商業地の頂点でした。

そんな銀座にも70年代には若者文化が台頭し、ジーンズやTシャツという服装が一般的になり、新宿、渋谷、原宿といった街が若者の街となっていった時代で、高級で正統的な銀座の街にもそんな世相が反映されつつありました。
そんな中で、11もの地権者さんが共同で出資して「ナウなヤング」に特化したコアを建てたのは大英断だったようです。(実現まで長い道のりがあったそうです)

余談になりますが、
コア開店と同じ71年の7月には、銀座三越の1階にマクドナルドの1号店が開店し、70年に始まった歩行者天国で銀座通りを歩きながらハンバーガーを頬張るというのが最新の流行風俗になります。
72年には平日の夕方に若者向けの情報バラエティ番組「ぎんざNOW!」も開始されました。今思うとヤング向けの番組が新宿でも渋谷でもなく銀座だったのも頷けます。

そのコアですが、2028年には新ビルが竣工予定で、地上12階・地下2階建ての、今までの約1.4倍の床面積のビルに建て替わるそうです。銀座っ子としましては建物も内容も、かつてのように日本をリードして欲しいものです。
楽しみですね♪

202407


スタッフが個人的に以前から気になっていましたのですが・・・
数寄屋橋辺りから晴海通りを歩いていますと、左右の交差点に不思議な交通標識が立っていることに気づきます。
リヤカーのイラストに似ていますが、昔から使われていた「大八車が通行禁止」になっています。
そりゃあ江戸時代には、銀座の町中も運河から荷揚げされた荷物を積んだ大八車が忙しそうに往来していたのでしょう。ただ、あまりにも荒くれの走りで交通事故が発生していたようで、事故の内容によっては最高で死罪も設けられたそうですよ。

さて現代に於ける大八車って?(スタッフは時代劇でしか見たことがございません)
警視庁の広報課によりますと
「1991(平成3)年~1992(平成4)年頃、銀座地区を中心に夕方から深夜帯にかけて、ラーメンや磯辺焼きをはじめとする屋台などが非常に多く出店し、周辺交通に大きな影響を与えるなど社会問題化していたことから、地元住民らの要望を踏まえ規制した」
のだそうです。
1993年からの規制だそうですから、銀座コットンクラブ開業の2年前からだったのですね。

気持ち良く酔った後や残業で頑張った後の屋台はとても魅力的な存在。
先月の話題にも書きましたが、2030年までに8丁目の周辺も変化するみたいです。この際ですから行政主導で屋台特区を設けてはどうでしょうか?単なる思い付きでございます。

202406


電車に乗る時に座席の一番端っこに着席できると、何故だか落ち着きませんか?
と、いきなりこんな書き出しで申し訳ございません。
コットンを含む高級クラブの並ぶ銀座八丁目を囲むように走っている東京高速道路を、今後10年ほど掛けて遊歩道にしてしまう計画が進んでいるそうです。
と言いますのも先月の散歩道でも触れましたように、日本橋上の首都高速が地下化するのですが、これに伴って接続される銀座ランプなどの半地下道路も完全に地下化され、遊歩道になるのだそうです。
そうなりますと、ぐるっと8丁目を抱きかかえるようにめぐらされている高架道路も、有楽町の先で行き場を失ってしまいますので、自動車道路としては存続できなくなります。そこで発案されたのが遊歩道案なんですね。

素案によると、車道としての機能を廃し緑化する。広場なども整備し、歩いて楽しめる空間を作る。今まで同様に、運営する東京高速道路は商業施設の賃料収入を充て運営・管理する方向だそうです。「銀座インズ」「西銀座デパート」「銀座ファイブ」「銀座ナイン」も時代と共に変貌するんでしょうか?

八丁目と新橋・有楽町を結界のように隔てている高架道路に、気持ち良く抱かれているような今の空気感は損ないたくないなと思いながら、地下鉄に揺られていました。

202405


銀座っ子にはとても楽しみなニュースが入って参りました。

以前にもこのコラムで触れさせて頂きましたが、日本橋周辺の川(運河)の上に掛かる首都高速道路の地下化が、いよいよ本格的に動きだします。
日本の高度成長期を支え、1964年の東京オリンピックの中継で世界をアッと言わせた象徴の首都高速ではありましたが、どんどんきれいに変貌していく周辺の景色の中にあって、暗く空の見えない空間にはいつでも違和感がございました。
日本の全ての道路の起点とも言うべき日本橋が高速道路の下で抑圧されたようになっていましたね。
その首都高速を地下化することで、日本橋に空が復活します。「お江戸日本橋七つ発ち♪」のメロディーが聞こえてきそうな、のどかで晴れやかな日本橋が実現するんですね。

工期は2024年3月~34年3月の10年に及ぶそうです。
ここでお客様からのご指摘が入る前に一言申し上げておきたいと思います♪
「その時」になっても銀座コットンクラブは「相変わらず営業している予定」でございます(笑)
変わらずにお待ち申し上げております

202404


今回は銀座から足を延ばして青梅からお話を始めたいと思います。
江戸の飲料水を確保する為に、四谷から43キロも離れた多摩川の上流(東京都青梅市の少し手前にある現在の羽村市)に設けられた取水口「羽村取水堰」をご存知でしょうか?
羽村取水堰から四谷まで人口の用水路ですが、「玉川上水」と聞けば一度は耳にしたことがあると思います。
玉川上水の工事は、100m毎にたったの20cmという僅かな高低差を維持して43kmも掘り進むという、驚異的な土木技術だったようです。素晴らしいですね。
四谷から先は木製の樋を使って大名屋敷などに配水していたようです。

では銀座界隈に戻りましょう。特別快速で約1時間強の旅でした。
前回話題の日比谷入り江に注いでいた平川は、一部は江戸城の水道として引き込まれていたようですが、江戸の町づくりには都合が悪いみたいで、神田山を掘削した「お茶の水の深い峡谷」を経て、隅田川にまで延伸して注ぐ今の神田川の流れに変えられてしまいました。江戸城の外濠という側面もありました。
工事を請け負わされたのは軍事的に強大で金持ちの伊達藩でした。反逆できないように力を削ぐ狙いもあったようです。まだ二代将軍秀忠の時代でした。

その後は石神井川と神田川と玉川上水の三つの流れが、江戸の水道水として活躍することになりますが、その恩恵に預かれない人々は共同井戸を生活に使っていました。銀座にも井戸があちこちに点在していたのでしょうね。

1つ疑問が解けました。
神田川に沿って江戸川橋という駅名がございますが、昔は早稲田から飯田橋までに2.1kmだけ「江戸川」と呼ばれていたそうで、その名残なのですね。
ちなみに上流から下流まで「神田川」という名称に統一されたのは1966年で、比較的新しい名称でした。

202403


そういえば去年話題にさせて頂いた日比谷入り江ですが、埋め立てに使用した土砂はどこから持ってきたのでしょうね?

簡単におさらいしますと。江戸に幕府が開かれた頃、今の銀座界隈は小さな「江戸前半島」に相当し、江戸前半島と江戸城(今の皇居)の間には「日比谷入り江」と呼ばれる浅い海が横たわっていました。

日比谷入り江は葦の茂る湿地のような浅い海で、そこには平川という川が流入していました。
江戸の町作りには縦横に運河が必要ですし、飲料水の確保も大事です。ですがこの平川から流入する水は、日比谷入り江の埋め立てには不都合でした。
銀座から少し離れますが、お茶の水駅の周辺だけ都心には似つかわしくない深い峡谷を形成してますよね。
あれは神田駅の東側にある神田山という本郷台地の一部を開削して平川の流れを変えるという大工事を行い、その土砂で入り江を埋め立てました。
それで出来たのが今の神田川です。お茶の水の不自然な谷間は日比谷の土地を作る過程でできたものなのですね。
元々は小高い丘だった神田山を大胆に削ってしまったので、現代になっても丸の内線があそこだけ顔を覗かせることになってしまったわけなんですね。道理で・・・
東京には「日比谷」だけでなく「渋谷」「四谷」「茗荷谷」「千駄ヶ谷」のように地形の「谷」が付く地名が多いのにお茶の水だけは谷が付いていないのも頷けます。

平川はやがて百万都市「江戸」を支える3つの水道の一つとして重要な使命を担うことになりますが、大工事はこれだけではありませんでした。今の河川地図からは想像もつかないくらいの大事業の始まりです。
「善く国を治める者は、必ずまず水を治める」という中国の故事がありますが、江戸幕府は巧みに難事業を巧みに利用しながら国を治めていきます。

かつての日比谷入り江には、瑶子ママの話題に出てきたおしどりものんびりと羽根を休めていたのでしょうね。

202402


古地図を眺めていて気付いたのですが、江戸時代や明治時代には「京橋」という町名は見当たらないのです。(今は銀座と日本橋の間にありますが)
「京橋税務署(現築地)」「京橋消防署(現京橋)」「京橋郵便局(現築地)」「京橋図書館(現新富)」などなど、「京橋」でもないのに「京橋」と付いた公共施設がいくつもございます。
言うまでもなくコットンも含めたこの辺り一帯が「京橋区」だったことの名残なんですね。

江戸時代に設けられた「京橋という名の橋」は、江戸城のお濠と八丁堀の間(現在の中央通りの銀座と京橋の間)を東西に結んでいた「京橋川」という運河に掛かっていました。。

1959年(昭和34年)「京橋川」が埋め立てられ、東京高速道路が敷設されました。それに伴い「京橋」も撤去され、「京橋の欄干の親柱」のみ記念碑として残されています。その1つは日比谷公園内で観ることができます。

「京橋区」は1878年(明治11年)に郡区町村編制法により東京市に15の区が出来て、その1つとして設置されます。その後東京は35区に分割され、戦後に現在の23区に落ち着きます。
その際に「京橋区」とお隣の「日本橋区」が一つに合わさって「現在の中央区」になったのですが・・・
明治初期に設置された京橋区と境を接するのは時計回りに麻布区・赤坂区・麹町区・日本橋区でした。

今では中央区は全国の政令指定都市に11も存在しますし、戦後間もない頃のナウなヤングには評判は良かったのかもしれませんが、歴史の重みを感じられないので、また京橋区に戻らないかな?と思うのであります。(個人の感想です)
銀座周辺には、まだまだ京橋の香りを漂わせた場所がございます。
機会があればまた触れてみたいと思いますので、ご来店前の同伴そぞろ歩きコースに加えて頂ければ幸いです。

202401


初詣にはお出かけになられましたでしょうか?
商売繁盛・金運アップのご利益があるとされ、宝くじを買う前に参拝しておみくじを引く人が多いとも言われている神社が、弊店コットンクラブの裏手(100mくらいの距離)にございます。
一年の始めは中央区銀座8-4-5のビル1階にひっそりと佇む「八官神社」への参拝はいかがでしょうか?

八官(ハチカン)なんて雅な雰囲気ですよね。平安時代あたりの建立ではないかと勝手な想像をしてしまいそうですが、調べてみますと江戸時代初期に起源があるとのことです。
その八官とは元和(1615-23)の時代にオランダ人ヤヨウス・ハチクワンに下賜された屋敷地に由来するそうです。
ハチクワン=ハチカン=八官・・・ということですね。なるほど♪

もともとは江戸時代に「穀豊稲荷神社」(こくほういなりじんじゃ)とよばれていた神社で、明治時代の八官町12番地(現在の銀座八丁目の一部)に鎮座していたのですが、関東大震災後の区画整理で町名がなくなることを嫌った町民が「八官神社」と改称して町名を残したことが名前の由来とされています。

かつては小規模な神社レベルの境内もあったそうで、二度の町内移動を経た現在では祠だけの規模にまで縮小していますが、宝くじにご利益があるなんて、お力は絶大であります。
参拝されたお客様も良いおみくじが出ましたら、コットンクラブのスタッフにも見せて運を分けて下さいませ(笑)

本年もまたより良い年でありますよう、皆様のご健勝を心よりお祈りしておりますと共に、銀座コットンクラブは心を込めたおもてなしはもちろん、お客様がリラックスしてお楽しみ頂けるような大人の癒し空間を提供してまいります。
変わらぬご愛顧を心よりお願い申し上げます。

202312


大河ドラマ「どうする家康」も先月は関ヶ原の合戦を終えて、いよいよ江戸幕府が開かれたところまで進んで参りました。
注目すべきはドラマそのものより、番組の最後に松重さんの語りによる解説がついに銀座(貨幣を作る役所)を設けたところまで語られことの方が重要なのです。(銀座っ子個人の感想です)

銀座というのは地名ではなくて新両替町に出来たお金を作るお役所なのですが、なんでも短く言いたがる江戸っ子にとっては短くて発音しやすい濁点を含んだ「ぎんざ」という俗称が良かったのだと想像できます。
新両替町が銀座という町名になるのは江戸時代3百年の時を経た明治2年ということですから、「銀座」って江戸っ子にずっと大事にされてきた地名でありブランドなんですね。

不思議なのは、役場としての銀座は今の1丁目なのに、「銀座発祥の地の碑」は2丁目のティファニーさん前の歩道に建てられているんですね。
夜でも明るいので碑文を読むことも可能ですから、コットンクラブにおいでになる前に、イルミネーションの町をそぞろ歩きに寄ってらしてはいかがでしょうか?

202311


銀座のあちこちでハナミズキの葉が深紅に、あるいは紫に色づいています。
春の桜が咲き終わった後に白やピンクで目を楽しませてくれたハナミズキも、元々は外来種ですね。
ワシントンD.C.に贈ったサクラの返礼として1912年に日本へ贈られた木なのですが、今では日本中の街路樹としてお馴染みになりました。
しかも!港区の花でもあります。
歓迎されない外来種もあれば、国賓級に歓迎される外来種もあるんですねぇ。(シミジミ・・・)

ハナミズキを見掛けましたら、地面にも目を向けてみてください。1.5センチくらいの赤い実が落ちているかと思います。桜の実のサクランボは食べられる種類もございますが、ハナミズキは食べられるという話を聞いたことがございません。チャレンジはお薦めいたしません。

また来年以降の季節になりましたら、花の話として触れてみたいと思います。

202309


先月はお休みしてしまいましたが、江戸前半島と日比谷入り江のお話です。
目を瞑って400年前の徳川家康が江戸城に入城する頃の地図を思い描いてみますと・・・
「江戸前半島」は東京駅と神田駅の間を付け根としてほぼ南へ伸びた細長い陸地で、今の新橋あたりが岬になっていたようです。
その頃の江戸前半島から西を望みますと、江戸城(今の皇居)や霞が関などの小高い陸地が見えていて、その間には「日比谷入り江」という浅い湾がありました。
「日比谷入り江」は江戸湾の北西奥に新橋付近を湾口として北に伸び、北端は現在の大手町にまで達した海ということになります。
入り江の一番奥には旧神田川が流れ込んでいました。

江戸城を開いた太田道灌は、この日比谷入り江を天然の濠という位置づけていて、家康もまた最初は江戸城直結の軍港と考えていたようですが、壮大な江戸という街づくりに於いて埋め立てられ、お濠や武家屋敷へと変貌させていきました。
今でも日比谷はなんとなく低地な感じがしますし、海は今の日比谷濠として残っています。
神田川もまた工事によって流れを替えられてしまい、江戸城を囲むお濠の一部として機能するようになりました。

江戸前半島には目立つ丘はなかったようですが、半島の背骨にあたる部分は今の銀座中央通りです。
海運が盛んだった江戸時代はいくつもの運河が掘られた銀座界隈ですが、戦後はご存知の通り埋め立てられて地名にその名残を見るだけになってしまいました。

ところで、当コットンクラブは400年前も陸地にございましたので、ご安心くださいませ。
「何が安心なの?」というツッコミをお店でお待ち申し上げております。

202308


8月といえばお盆!お盆といえば故郷への帰省でございます。
銀座周辺には県別のアンテナショップや物産館が多く、それぞれの地域の「押し」や故郷の味が並んでいます。ご自分の故郷とは別の地域を満喫されるのもいかがでしょうか?

北海道 北海道どさんこプラザ
気仙沼市,久慈市,福島市 おかえり館
富山県 いきいき富山館
香川県 ふるさと物産館 
沖縄県 銀座わしたショップ
奈良県 奈良まほろば館

他に20県もの店舗がございます。

202307


あまり深くは考えていなかったのですが、あることを切っ掛けに「江戸前」(えどまえ)というキーワードを思い出しました。
江戸前と言いますと真っ先に江戸前寿司を思い起こしますが、本来の江戸前とは東京湾(江戸湾)で取れた魚介類のことを指します。
むかーし河川の汚染が無かった頃は、荒川、江戸川、利根川といった滋養やミネラルをたっぷり含んだ川が流れ込んでいたので、江戸の町の直ぐ沖で獲れて水揚げされる海の幸はさぞかし美味だったことでしょう。
ちなみに、どこまでを江戸前としたのか?わりといい加減な定義だったようです。

一方、「江戸前寿司」は今では握ったご飯の上にネタを乗せたスタイルの総称ですが、始まりの頃は「江戸前の豊富で新鮮な魚介類を材料として寿司屋の寿司職人が作る寿司」という狭い定義でした。

江戸前では獲れない外海で獲れた魚介類を江戸市中で消費して貰うための運搬中の保存手段として、銚子では漁業と共に醤油作りが本格的になります。
江戸との周辺では運河の発達による水運が盛んになり、江戸の市民の台所も豊かになって参ります。

そしてもう一つ、
私たちの銀座のルーツになる「江戸前島」について、近いうちに触れさせて頂こうと思います。

202306


当店28周年でございます。
お暑い中ではございますが、特別なウェルカムワインをご用意しておりますので、こんな機会に是非お立ち寄り頂けたら幸いです。

さて、
パソコンが目の前にあるので、今流行りのAI「ChatGPT」を少しかじってみました。
仕事に使えるのかな?と思いまして、例えば
「銀座界隈散歩道というテーマで文章を考えて」
「銀座クラブ・コットンクラブについて教えて」
「銀座クラブ・コットンクラブの28周年記念の挨拶文を考えて」
と、こんな感じで入力してみたのですが・・・・
(手抜きを企んでいるのではございません(汗))

結果は・・・
あっはっは!と笑わずにはいられない答えが返って参りました。
スタッフは「これは銀座コットンクラブでは使えない」と思わざるを得ません。

見当外れな答えもありました。それは入力する文章を工夫したり会話形式で修正していけば少しは改善されるようです。
もちろんお客様の心のひだに寄りそうような文面は期待できません(笑)
その一方で完全に間違った情報を返して来ることもございます。その間違った情報を信用して世の中が間違った方向に行ってしまったら?考えただけで怖いです。

もっとAIが進化しましたら、サービスをすべてAIロボットに委ねた「コットンクラブAI店」をオープンできるかもしれません。
と、自分で書いておいてなんですが、そんな銀座コットンクラブはまっぴらでございます(笑)
ではまた次回に

202305


銀座を通る地下鉄の話題が二つも聞こえて参りました。

ひとつは、有楽町線が豊洲駅で分岐して、東陽町駅を経由して住吉駅まで延伸する予定で、中間に「(仮称)枝川駅」と「(仮称)千石駅」の2つの新駅を設置する計画。
この延伸により、南北移動の所要時間が大幅に短縮されるほか、周辺路線の混雑緩和や輸送障害時の代替ルートの確保などの効果が期待されます。
開業は2030年代半ばを目指しているそうです。

もう一つは、仮称「都心部・臨海地域地下鉄」でJR東京駅付近から江東区の東京ビッグサイト付近までのおよそ6キロを結びます。
「東京駅」を起点に、臨海部に向けておよそ1キロごとに、「新銀座駅」「新築地駅」「勝どき駅」「晴海駅」「豊洲市場駅」、そして「有明・東京ビッグサイト駅」のあわせて7駅の新設が検討されています。
2040年までの開通を目指すそうです。

この話題を取り上げておいてなんですが・・・うーん・・・どちらの線も8丁目から遠いのですね。
ですが、少しでも便利になるお客様がいらっしゃるなら幸いでございます。

202304


東京の開花宣言は、靖国神社境内に立つ一本の桜を気象庁の職員さんが目で見て判断して「宣言」されています。
テレビ局のカメラも集まっていますが、この時ばかりはそれぞれが勝手に判断することなく、職員さんの宣言を固唾をのんで待つというのが恒例でございます。
デジタルな時代にあっても超アナログなのが微笑ましいですね。
以前にも書きましたが、ソメイヨシノは東京染井の品種改良を専門とする植木屋さんが、エドヒガンザクラとオオシマザクラという種類の桜を交配して作り出した1本の木から全国に広まったものですので、気温が同じ条件なら一斉に咲くという性質を持っています。いま流行りのクローンというやつですね。

ところで
毎年発表される桜前線の等高線のような予想図を見ていて、何故か東京周辺だけ早いのが気になります。
これってコンクリートやアスファルトで固められた都市特有の、ヒートアイランド現象による温度の上昇が原因のようです。
地球温暖化が原因と仰られる方も多いかと。難しいことはよく分かりませんが・・・

このところ全国的に新しく植えられる桜の品種には、ソメイヨシノは使われなくなっていると聞きます。
老化が速くて折れたり虫食いに弱いなど、各地でいろいろ環境問題や責任問題になっているようです。
また咲いている日数が短いので、観光日本としては少しずつ違う種類を植えて長持ちさせたいという思惑もありそうです。

千鳥ヶ淵の桜吹雪を愛でながら、皇居を時計回りにコットンクラブへのそぞろ歩きなどいかがでしょう?
開花の様子やピンクに染まる御濠などお伺いできましたら幸いでございます。

202303


先月は昨年の秋に解体されてしまった中銀(なかぎん)カプセルタワービルの話題でしたが、今度は超一等地で目立っていたガラス張りの円筒形のビル「三愛ビル」が建て替えの為に閉鎖してしまいました。
老朽化で60年の歴史に幕だそうです。正式名称が「三愛ドリームセンター」というのも今回の事で初めて知りました。
子供の頃に親に連れられて入ったガラス張りの明るい店内と、地下3階へと続く階段が秘密基地へとつながっている錯覚を覚えるようなギャップもまた楽しみでもありました。

空から見たら周囲の建物は四角で、三愛ビルは丸。
余計なお世話だと思うのですが、子供心にも土地の高い銀座に於ける丸の周囲の空間が無駄な気がしていて、学校で円の面積を習った時にはノートの端っこで四角との比較計算をやってしまいました。大人になったら「四角にした方がよいですよ」と言ってあげるつもりでした(笑)
今では銀座のシンボルの一つでありランドマークであり続けた三愛ビルの建設を指揮した、リコー創業者の市村清氏の美学に敬服するばかりです。

202302-2


先日、「ぎんざきゅうちょめはみずのうえ♪」というテンポの良いフレーズを小耳にはさみました。

銀座っ子としては知らないのもちょっと悔しいので早速調べてみましたら、昭和33年に神戸一郎(かんべ いちろう)さんの歌でヒットした「銀座九丁目水の上」という曲でした。

ご承知の通り、銀座には九丁目という住所は存在しません。
銀座コットンクラブのある八丁目と新橋の間には運河が流れていましたが、この歌の後に埋め立てられて高架道路になってしまいました。今その高架道路の下は「銀座ナイン」という商業施設になっていますね。
実は未だにそこには正式な住所が無いのです。だって川の上ですから♪
何故、新橋ではなく銀座と通称されるのか?といえば、当時のブランド力から考えても「銀座」を選択したのであろうことは十分に想像できます。

「夢の光」「シャンデリア」「粋なカクテル」「マンハッタン」「欧州通いの夢」「こゝは青空 海の上」などのキラッキラ!な夢キーワードが散りばめられたこの歌は、まだ戦後を引きずっていた日本の中でも銀座が、いち早く復興を遂げる象徴でもあったようです。
歌詞に出てくる九丁目とは、実際に存在するどこかではなく、銀座辺りの夕景が見える優雅な時を過ごせる遊覧船の浮かんでいる海上。憧れのヨーロッパやニューヨークへとつながっている銀座とシャレたのでしょう。

八丁目は今日も九丁目に向かう夢の桟橋でございます。


202302-1


コットンクラブと同じ銀座8丁目に建っていて、昨年の秋に解体されてしまった中銀(なかぎん)カプセルタワービル。とても特徴ある外見でしたので、鮮明に覚えている方も多いかと思います。
1959-60年に始まった日本の建築家グループによる新しい都市の在り方として提唱された建築運動=メタボリズムは、設計者の黒川紀章さんも参加していました。

メタボリズムというとなんだか身体によくない太り方を想像してしまう昨今ですが、元々は古いものが新しいものに次々と入れ替わることを指す言葉(metabolism)でした。
夏目漱石が新陳代謝という造語を充てたのがそのまま日本語として定着したようです。

都市に於ける建築物は老朽化してから立て直すのではなく、時代や必要に応じて新陳代謝するように交換したり姿を変えたりできるという設計思想を体現した稀有な建物でした。
具体的にはあの立方体のようなユニットが交換できるように設計されていたのです。
1972年の竣工から50年が経ち、老朽化が進んでいました。当初、25年に1度、工場で生産したカプセルを現場で交換することで200年はビルを維持するはずでした。
しかし結局、設計上の問題によりカプセルは一度も交換されることはなく解体の日を迎えてしまったのは残念でなりません。
その跡地には新しいビルが建つようです。
心配しなくても銀座は健全に新陳代謝しているようですね。

202211


今年は鉄道開業150年ということで、テレビの番組や各地のイベントが数多く目立ちますね。
新橋にも近いコットンクラブとしましては、何となく嬉しい気持ちになります。
ご存知の通り、日本で最初の鉄道路線が東京・新橋と横浜の間で1872年に開業したわけですが、それが日本最初かと問われると微妙です。
開業から遡ること7年も前に、長崎で鉄道のデモンストレーション走行が行われていたのです。そのために「我が国鉄道発祥の地」の栄冠は長崎の頭上に輝くことになりました。
今年、その長崎にも新幹線が開通しました。遠い九州の話ではありますが、今も私たちの直ぐ傍から全国に広がり繋がっている線路に旅の夢を乗せてみたいですね。
銀座コットンクラブから徒歩で行ける旧新橋停車場 鉄道歴史展示室(港区東新橋1丁目5-3)は無料で見ることができます。

202210


銀座のお隣・日本橋の上を通る首都高を地下化する工事が進んでいます。
以前の散歩道でも
「無数に張り巡らされた江戸城の外濠、つまり運河や河川を使おうという発想が湧いてくるのは必然でした。」
・・と書きましたように、第一回東京オリンピック開催の前年1963年に完成した首都高速ですが、当時の土木技術とコストを考えると、江戸城の外堀を使う以外の選択肢はなかったのでしょうね。
その後はシールド工法などのトンネル技術が当たり前のように使われるようになり、「江戸歴史とハイテクの融合した東京」の空を取り戻すことに舵を切ったのだと思います。

広重の絵に出てくる日本橋はとても大らかで、江戸の象徴の一つでした。
いまそれを味わいたいと思ったら、両国の江戸東京博物館に行って当時を忍ぶしかないのです。
日本の道路の起点ともいうべき日本橋が高速道路の下という日陰者の立場に甘んじているなんて、これは銀座っ子としては由々しきことでございます。
橋桁が着々と撤去され、当時が戻りつつあります。2040年ごろ完了見通しだそうですよ。
今から屋形船を予約しておきましょうか?

202208


コットンクラブが新橋に近いせいでしょうか?日本の鉄道発祥の地として、新橋と桜木町(横浜)に親近感を覚えます。
・・という前振りの話題を少し。

明治時代の銀座界隈の写真や錦絵を見ていますと、レンガ造りの建造物とガス灯(街灯)が目につきます。
なんの根拠もないのですが、日本初のガス灯は銀座が最初だと思い込んでおりました。
今の浜松町辺りから京橋までの間に85灯が設置されたのが明治9年。
ところが調べてみますと、街灯としてのガス灯の日本初は横浜の馬車道に明治7年に設置され、(負けましたorz)
更に大阪造幣局の屋内には明治4年に設置されていたそうです。

この灯火に使われるガスは埋設したガス管で供給されていたそうで、東京で事業開始した会社は今の東京ガスさんなのですね。
実際にガス灯が点灯したのを見たことがありますが、ガスコンロの炎とは比べ物にならないくらい明るくて、100Wの裸電球くらいの明るさに感じました。
省エネが叫ばれる時代です。使っていない時も常に発電しなくてはならない電気と比べて、使った分だけ消費するガス灯が再び脚光を浴びる時が来るのでしょうか?

でもガス灯ではエアコンを回せませんので、快適な癒し空間をモットーとしております銀座コットンクラブでは見送りとさせて頂きます。


202207


新銀座という駅ができるそうです。
計画によると、新東京→新銀座→新築地→晴海の埋め立て地方面?
タワーマンション群地域の開発と利便性を目的にしているとか。
新銀座は今の銀座より八丁目に近いそうなので、期待は膨らみますが、銀座通りの向こう側なのだそうで、嬉しさも半分くらいでございます。
もしまだ銀座地区の運河が残っていたら、連絡船がひっきりなしに行き交う海上交通都市の様相になっていたかもしれません。そうなりますと、コットンクラブ最寄りの難波橋には船着き場があったそうですから、当店のお客様にとっては便利この上なし!
でも船宿にお客様を取られたくないなぁ、などと妄想は尽きません。
更には有楽町線がもう少し新木場に寄った辺りで北上する新線も計画されているとか?
先が楽しみな銀座でございます。
(何でも駅名には安易に新を付ければ良いのでしょうか?庵野秀明監督のシン・ゴジラ、シン・エバンゲリオン、シン・ウルトラマン、シン・仮面ライダーみたいに「シン・銀座」だったらなぁと思っているのは内緒です)

202205


今年に入って老化した桜の処遇に関する記事をよく目にしました。
毎年一斉に花開いて私たちの目を楽しませてくれるソメイヨシノのお話ですね。
あちこちで桜の老木を目にすることが多くなってきましたが、ソメイヨシノの寿命は50年から長くて100年なのだそうですよ。
江戸末期にたった一本の木から接ぎ木によるクローンで日本中に広まったので、地域毎の気温によって「開花も散るのも一斉に」ということになるんですね。
困ったことに、老化が早いのもソメイヨシノの特徴の一つなのだそうです。
もう10年以上も前からソメイヨシノが新たに植樹されていないことは以前書いた通りです。

ソメイヨシノが街路樹や土手(堤)に好んで植樹されたということは、同い年の兄弟ということでもあります。
多くの木がいつ倒れるかもしれないという危険があるので、行政の方々が泣く泣く一斉伐採に踏み切ると同時に、住民の皆さんの反対運動との鬩ぎあいも散見されます。

今年も皇居の桜が一斉に咲き、風に散ってお堀に花筏が浮き。そんな光景を眺めながら、桜の名所が途切れることの無いように世代交代を成し遂げてほしいと願っています。

202203-2


3月16日の深夜に大きな揺れがございました。
被災された方々、怖い思いをされた方々には心よりお見舞い申し上げます。

お隣の新橋の一部でも停電で真っ暗になってしまいまして、テレビ局が近いせいでしょうか?信号機の消えた交差点に撮影隊が集まって報道していました。
不思議なことに少し離れた西6丁目交差点の信号機が停電していたとか?
(午前3時までには解消したそうです)

あまり考えたくはないのですが、万が一にもお客様がいらっしゃるときに災害級の揺れに見舞われたら?
ご安心ください。当店はビルの5階ですので、落ち着いて行動して下されば安全に外に出られます。
もし停電になったら、携帯の明かりでも十分に役に立ちます。

さて、銀座コットンクラブの辺りは指定の広域避難所があるのでしょうか?
中央区のホームページを調べてみますと、銀座は全て「地区内残留地区」なのだそうです。
「地区内残留地区」とは、木造の建物が少なく街区のほとんどがビルに囲まれているため、火災が発生しても延焼しにくいと想定される地域です。基本的には広域避難場所への避難は不要ですが、防災関係機関から避難勧告が出された場合には、その指示に従って指定の場所へ避難することになります。
・・・と、書いてありました。
日比谷公園が近いのですけどね、避難先に何故載っていないのかと思ったら・・・
あそこは千代田区だったというオチでございました。

当銀座コットンクラブへの道すがらに、安全についてもお客様と共有させて頂けましたら幸いです。

202203-1


バーチャル(現実そっくりではあるが仮想)の世界では、「バーチャル渋谷」「バーチャル秋葉原」のような仮想都市空間も生まれているそうです。
実際に土地や建物が存在するわけではないけど、コンピュータで創られた都市の中では、アバターと呼ばれる(成りたい理想の自分)キャラクターになって、実際に買い物ができる店舗や、会議もできるオフィス、更にはデジタルチケットを買って参加する音楽ライブやゲーム観戦もできて・・・・いろんなアイデアから生み出されるサービスが百花繚乱の様相を呈しているようです。

「バーチャル銀座」で検索してみますと、やっぱりありました!
今月(2022年3月)までの実証実験中なのだそうです。
その内容について深追いは致しませんが、

「バーチャル銀座コットンクラブ」なるものを勝手に想像してみました。

女の子もスタッフもママも、そしてもちろんお客様も、みんな自宅で例のあのゴーグルを装着して参加です。
全員がアバターなので素顔は見えませんし、お客様が本来持っていらっしゃる社会的ステータスも関係ありません。
お手数ですがお客様の方でお飲み物とおつまみはご用意くださいませ。
・・・こんなコットンクラブはイヤでございます(笑)

どうせバーチャルなら江戸時代の銀座を再現したら面白いかもしれません。
銀座コットンクラブ改め「銀座八丁目綿花社交場」でございます。
おいでになる際は徒歩または籠または舟でお越しください。
難波橋のたもとには船着き場がございますが、馬はつないでおく場所がございませんしお役人が見廻っていますのでご注意下さい。
ご予約は飛脚にて承ります。
風紀上、ちょんまげのお客様のみの入店とさせて頂くことになります。

・・・と、ロクなことを思いつきません
早くリアルな皆様にお会いしたいものでございます。

202202


「昔は良かった」というのは得てして嫌われる話題なのですが、江戸時代の地図を見ていて気付いてしまったので敢えて書いてみます。

今の銀座エリアに江戸時代の町人が居住していたのは、昭和の頃にあった「銀座」と「西銀座」エリアでした。
今は駅名だけになっている「東銀座」はお武家様のお屋敷が立ち並んでいたようです。

今の銀座はブロック単位(道路から道路の間)で町名や番地が分かれます。
ところが江戸時代の銀座エリアは「通りの両側が同じ町名」になっていました。ということは現代のブロックの真ん中で町名が変わるのです。
他の通りもまた往来の両側が同じ町内ということになっていました。
通りに面したお店や職人さん同士で形成されたコミュニティが絆を高め協力し合い、挨拶もきちんと交わされていたのでしょうね。きっと子供の教育にも良かったのではないかと想像します。

この「通りの両側」という区画の考え方は、大阪や京都に今でも残っていますので、そちらご出身のお客様には笑われてしまうかもしれませんね。

同じブロックやビルの中でさえ見知らぬ同士となってしまった今の銀座では想像もできません。
当時の光景をちょっと羨ましく思いながら想像してみました。

202111


コットンクラブのある8丁目の辺りだけ、なんとなく空気が違うな?と感じたことはございませんか?
同業者さんが多いから?というのもあるかもしれませんが、それともまた違う感じです。
最近教えて頂いたのですが、東京大空襲の時に7丁目から8丁目だけが奇跡的に焼け残ったのだそうです。
なるほど・・・何となく解かったような気がします。
銀座に進駐軍の本部がやってくると、彼らに娯楽を提供できる場所が7丁目から8丁目辺りであった、というのが今につながっているようです。
その他の焼け野が原になった銀座界隈では、バラックや露天商や闇市が立ち並んで無法状態になっていたそうです。
そのままなら8丁目辺りも治安が悪くなりそうなものですが、当時のGHQ(連合国最高司令官総司令部)の指導により、昭和26年には現在のクリーンな銀座の原型が形作られたそうです。そんな中でも日本一の商業エリアとして不動の地位を保ち続ける、先人達のバイタリティとプライドは失われることはなかったようです。
皇居に近いこの界隈です。私たち銀座コットンクラブもクリーンな銀座の一員として心がけて参ります。

202109


オリンピックとパラリンピック。
心で日の丸の小旗を振りながらテレビのリモコンが手放せない日々でございます。

オリンピックの閉会式では日本各地の踊りが紹介されました。あ、これはもしかして?の期待通り、しんがりは東京音頭でしたね。
この東京音頭は伝え聞いた話によりますと、大正12年に起きた関東大震災後の景気回復を願い、昭和7年(1932年)有楽町の商店街の旦那衆がビクターレコードに作成を依頼した「丸の内音頭」が始まりでした。
日比谷公園では5日間連続で盆踊り大会が開催され、大賑わいだったとか。
これを見たビクターは次の年、全国に広げるために歌詞を変え「東京音頭」と改名してラジオで全国に宣伝したおかげで広まり、「はぁ~」で始まる特長的な歌いだしとも相まって大ヒット&ロングランとなります。

2003年以降は、日比谷公園の盆踊りで毎年、外国人も含む多くの人が踊る光景も有名になりました。2018年に亡くなった日比谷松本楼の前会長は、「いつか東京オリンピックで盆踊りをやりたい」と自民党の国会議員に頼んで回っていたのだそうです。
コロナ禍でなければオリンピック選手団を巻き込んで、世界デビューのチャンスでしたのにね。

日比谷公園に東京音頭の喧騒が少しでも早く戻ってほしいものです。
その流れで銀座コットンクラブの店内が浴衣姿でいっぱいになったら嬉しいです。

202108


あまりに暑いので、散歩はやめてTVでオリンピック観戦しております。

オリンピック選手村はオリ・パラが終わったら一般住宅になるそうですね。
なのでアスリートには段ボール製の簡易ベッド+アスリートに大人気の高級マットが使われているそうです。
先日9人もの選手がベッド上でジャンプを繰り返して破壊しちゃったというニュースが世界を駆け巡りました。
瞬間的には1トンの荷重が掛かったと考えれば、図らずも環境に優しく丈夫な段ボールベッドの宣伝になってしまいました。段ボールを扱う会社さんには沢山の注文が殺到しているのではないでしょうか?
プラスチック素材の段ボールもありますので、災害の現場や世界の難民への助けにならないかなと思ったりもします。

あ、もう一つ思ったこと・・・
メダリストが壁に落書きしてたら、プレミアが付いてその部屋の家賃(売り出し価格?)は高くなるのでしょうか?(笑)

202107


1964年の東京オリンピックでは、終戦からたった19年で焼け野が原から立ち直った東京の現状が衛星画像で配信されると、世界があっと息を飲んだそうです。
立派な国立競技場、東京タワー、新幹線、都心からどこまでも広がるビル群、そして首都高速道路。敗戦国のみじめなイメージを想像していた外国に対して、平和的に日本人のパワーを見せつけた瞬間でもありました。

都心に自動車専用道路を造る計画は、戦前からあったそうです。
焼け野が原になったのですから、自動車専用専用道路を含む都市計画もやり易いはずなのですが、行政がもたもたしている間に銀座周辺は隙間なく建造物で埋まって行ってしまいました。恐るべし民間パワー!

このコラムをお読みくださっていらっしゃる方ならもうお気付きだと思いますが、無数に張り巡らされた江戸城の外濠、つまり運河や河川を使おうという発想が湧いてくるのは必然でした。
先日のNHKブラタモリでも紹介されていましたが、首都高のルートは江戸時代に整備された運河とピタリと一致しています。そして首都高に使われなかった運河は前回書きましたように、処理に困った瓦礫で埋め立てることによって、切れ目のない街造りに役立つことになりました。
歴史の中で生まれた知恵や遺産が形を変えて現代の私たちを支えてくれているのですね。

今回の東京オリンピック・パラリンピックは、いろいろと制約の多い中での開催ですが、知恵と学びを大切にして心より成功をお祈りしています。

202106-2


かつて有楽町から晴海通りを築地方面に向かって行きますと、東銀座の手前に何故か道路がゆる~いアーチ型に盛り上がっている場所がありました。三原橋の跡ですね。
ここには三十三間堀川という江戸時代に造られた運河が流れていました。三原橋もそこに掛かる橋の一つ。
江戸時代には物流に大きな役割を果たした運河でしたが、明治・大正・昭和いう時代の流れの中で自動車や鉄道が発達して参りますと、縦横に幾筋も流れる運河は街を分断する邪魔な存在になってきました。
江戸城が攻撃されたら橋を壊して堀の代わりにするという役目も回ってくることもありません。

戦災で焼け野が原になってしまった銀座の写真を、どこかでご覧になった事もおありかと思います。
あの時の瓦礫を一挙に片づける手段として東京都は、使われていない運河を瓦礫で埋め立てるという荒っぽい方法で解決してしまいました。
反対意見もあったようですが、埋め立ててしまったおかげで、新しく土地という財産が生みだされたばかりか、人や物が縦横に行き来できる銀座の街が形成されて行きます。

その後も何十年と三原橋に残っていた、かつての橋のアーチも平らに舗装されて、今では地名にだけ「橋」が残っています。

202106-1


銀座界隈には「橋」の付く地名や交差点がいくつもあります。
コットンクラブ近くの難波橋交差点もそうですが、数寄屋橋・新橋・三原橋などなど、歩いても地図で確認しただけでも数十はありそうです。

銀座は元々日比谷入り江という海でしたが。ここを埋め立てて造成されました。
その時に造られた無数の運河は、江戸城に幾重にも回らされたお濠(堀)という点もありますが、やがて当時世界一の大都市になる江戸の町を支える運輸上の根幹になります。
(設計した人、偉い!)

「日比谷」⇒ということは谷間だった!
「根津」⇒江戸湾の一番奥。昔は海だった不忍池の奥の船着き場。
といった江戸の町が造られる前の地形がそのまま地名となっている場所も見受けられます。
ふと気付けば、
江=入り組んだ海(東京湾)
戸=その入口(陸地から見た)
という具合に、地形が今よりずっと人々の生活とは切り離せなかったのですね。

橋と川(運河)のお話しは銀座界隈だけでもいろいろありますので次回以降に。

202105


銀座という名の付く地下鉄の話題です。
この地下鉄線は日本で最初の地下鉄として1927年(昭和2年)に上野-浅草間で開業しました。
その後は上野から順次延長し、1934年(昭和9年)には新橋までやってきました。
一方、1939年(昭和14年)には新橋と渋谷の間を別の会社(今の東急)が開通させています。そして同年の秋には上野-渋谷間で相互乗り入れによる直通運転が開始されます。
その後は国有化されたこともありましたが、1953年(昭和28年)に営団という特殊な会社形態に移行すると同時に、ついに「銀座線」の名が付けられました。

高度成長期に突入する少し前の、都内の美味しいところを総取りしたような路線に、単なる通過点の一つに過ぎない「銀座」の名を付けたというところに、水面下では戦いがあったのではないかと想像してしまいます。
それでも銀座の名前が付いたのは、戦前からのブランド力だったのかもしれません。

知っている方は少ないと思いますが、昔の銀座線は切り替えポイントを通過するときに、1~2秒の車内停電がありました。子供の頃が懐かしいです。
一番古くて狭い車両も今では新型に一新され、ホームドアが付けられました。

古き良き東京の代名詞「浅草」と日本のショーウィンドウ「銀座」。大きく変貌する「渋谷」。
そんな地上の変化だけでなく、東京の地下にも発展を支える熱い意志があったのだと感じます。

202104


桜のお話しをもう少しだけ。
駒込と巣鴨のどちらからも近い染井霊園ですが、江戸時代末期の染井村の地図には隣接して10軒の植木屋さんが固まっていた地域がありました。今は一軒も残っていませんが、ソメイヨシノはとにかくそこで誕生したのは間違いないようです。
掛け合わせたのか勝手に交配したのかは謎ですが、とにかく生育期間が短年で派手に咲いてくれるという新製品ができちゃったのです。
 
「あなたの里にも吉野山がやってくる」と宣伝したかどうかは知りませんが、
全国的にも有名な奈良県の吉野山にあやかって吉野桜と命名して全国に売り出しました。
しかし「吉野桜」では本家と混同されてしまいますので、早々に「染井吉野」に改名することになります。
 
これって、、、全国にある「〇〇銀座」と発想が似てるなぁと思います。
 
そして全国に広まって行き桜の代名詞になったソメイヨシノは、いつの間にか菊と並んで日本の国花と言われるようになります。
ソメイヨシノはたった一本の原木から接ぎ木で増えたクローンだとよく言われます。なので温度などの条件が揃えば、その地域では申し合わせたかのように一斉に開花しますので、開花予想や桜前線が毎年のように春の訪れを告げる話題になります。

ワシントンのポトマック川に咲く桜は日本から贈られたソメイヨシノですが、前回の話題に出たジンダイアケボノは、ソメイヨシノとは別の種類ですがやはり日本から渡った桜との自然交配種らしいです。代替わりしても日本の桜なんですね。



202103


銀座からも歩いて行ける皇居の桜が咲き乱れる時節になって参りました。
桜と言えば「ソメイヨシノ」(日本国内にある桜のおよそ8割が同品種だと言われています)が代表格なのですが、最近新しく植えられているのは「ジンダイアケボノ」という品種なのだそうです。

ソメイヨシノとジンダイアケボノを比べてみますと
・共通点は花や樹形がよく似ている。
⇒傘のように広がる樹形、花の形状は一重咲きの中輪、そして花が咲いた後に葉が出る。

・開花時期が似ている
⇒どちらも3月下旬から4月上旬にかけて開花。正確にいうと、ジンダイアケボノのほうが少し早く開花しますが、数日早い程度なので、差があるというほどのものではありません。
入学式のイメージが強かった桜は卒業式を祝う花になっていくのでしょうね。

よく見ると違う点もあります。

・ジンダイアケボノのほうがやや濃いめの花色。
⇒ソメイヨシノよりも濃いめのピンク色で、グラデーションがかかっているのが大きな特徴です。なので遠目にはとても華やかに見えます。

・樹形も少し小さく小ぶり
⇒花色も樹形も似ていますが、ジンダイアケボノのほうが小ぶりです。ですが、小ぶりな樹形には狭い場所に植えても邪魔にならないという利点があります。また、華やかな花色のおかげで、木が小さくても豪華な雰囲気を出すことが可能です。この点も代替(植え替え)種となった理由でしょう。

・そのほかに
ソメイヨシノよりも「丈夫で病気にも強い」「長生き(だろうと言われている)」ということから、数十年先には「ジンダイアケボノ」が日本の春の代表格になっていくようです。

皇居の桜からそぞろ歩きで夕刻を迎えましたなら、いつもの癒し空間コットンクラブで楽しいお話に花を咲かせて下されば幸いです。

202102


こんなご時世ですが、初詣にはお出かけになりましたでしょうか?
人出を避けて近くの氏神様や小じんまりと祀られた神様に、お願いと誓いに手を合わせた方も多いと聞きます。
実は銀座界隈にはたくさんの神様が祀られていた記録があるそうですが、町の変遷と共に移設や合祀などが繰り返されて、今ではビルの中にや屋上などに移されて、私たちが参拝できない神様もいらっしゃるとか?

銀座コットンクラブの近く100mほどの距離には「八官神社」が。
250mほどの距離には「豊岩稲荷神社」がございます。
どちらも一般の私たちがお参りできるところに、ひっそりと且つ堂々と鎮座しておられます。明るい時間にお出かけになった方がよろしいかもしれません。
ネットや地図で探しますと、現在もまだまだ神様はいっぱいおられるようです。時代と共に洗練され高層化していく銀座にも、経済やテクノロジーに流されない大切な心のよりどころが残っています。

八官神社
中央区銀座8丁目45

豊岩稲荷神社
中央区銀座7丁目8

不要不急のお出かけが憚られる時期ではございますが、コロナが収束することを先取りしてのお参り。
家内安全・商売繁盛の御祈願の後は、いつもの癒し空間にお立ち寄り頂ければ幸いです。

202012


クリスマスと銀座を掛け合わせたシンボルを思い浮かべてみますと、「不二家のクリスマスケーキ」もその一つかもしれません。

不二家さんは1910(明治41)年に横浜元町で創業し、その年から日本初のクリスマスケーキを販売開始しています。なんと110年前!!
戦争で焼け野が原になった銀座のお店がバラックから再スタートして、TVのCMがバンバンと流されるようになった20年後には、日本中がクリスマスとケーキは切っても切れなくなってしまうほどになってしまいました。

「雪降る寒い日に温かいお部屋で冷たいアイスクリームケーキを」そんな謳い文句もあったそうです。こんなの誰が考えたのでしょうね?
クリスマスとケーキがあまりにも当たり前になってしまった昨今ではそれほど目立っているわけではありませんが、数寄屋橋交差点の店舗はTVCMやポスターなどでその外観が使われるほど、基幹店として不二家全体の象徴にもなっていました。

日本の文化、日本人の平穏で豊かな心を育んできたそんなお店が私たちの銀座にあることが誇らしく思えます。

202011


首都圏を走るJRと私鉄数社が、来年春のダイヤ改正時に、終電を現在のダイヤから15-30分程度早めるという方針だと発表しています。
私たち銀座コットンクラブでも、都や国の方針要請に協力した営業時間にシフトしていますので、この流れはとても理解できます。
本音を言わせて頂くなら、接客業の立場から華やかな銀座の文化を作って来た私達にとって、寂しい気持ちが無いとは言えません。
しかし、こんな時でも銀座コットンクラブをお気にかけてくださるお客様や、新規にお越しくださるお客様から頂くパワーや、時代を生き抜いていく切り替えの術にはとてもありがたく勉強させて頂いております。

癒しでお客様に明日への活力を提供するのが私どもの役目と心得てはおりますが、お客様から学ぶ有形無形に日々成長させて頂いております。

202010


有楽町駅前広場の江戸時代を散歩してみましょう。
有楽町駅中央口東から広場に出ますと地下への入り口(丸い屋根)があります。その裏側へ回りますと、「南町奉行所跡」という石碑が立っていました。
そうです。あの名奉行と名高い大岡越前のいたあの奉行所は、まさに今の有楽町駅前からマリオンの間の敷地にありました。しかも、駅前広場の再開発の際に見つかった南町奉行所の遺構から発見された石垣のオブジェまであります!奉行所の石垣も今ではベンチ代わりに使われてしまってますけどね(笑)

今の銀座界隈は一般庶民が暮らしていた江戸時代から運河が発達していて、橋もたくさん掛かっていたのは江戸の古地図を見ても良く分かります。物資の運搬に役立つだけでなく江戸城の守りとしての役割もありました。
ところで、町奉行というからには平民の住んでいる真ん中に在ったのかと思ったら、南町奉行所が在ったのは大きな意味で江戸城の敷地内でした。全然町なかではなかったのですね。
新橋から有楽町を経て東京駅に通じる高架道路がありますが、あそこは昔、城の内外を隔てるお濠(堀)であった為に、橋の数がグンと少なくなります。しかも警護の門番付き御門ばかり。
銀座コットンクラブ近くの難波橋は運河に掛けられた誰でも渡れる橋でしたが、私たち庶民がお濠の中にある奉行所に行きたいと思ったら、門番に守られた数寄屋橋を渡ることになります。
 
数寄屋橋御門のこちら側一帯(みゆき通りの一部を含む銀座4丁目と5丁目の駅に近い方)は有楽原(うらくばら)と呼ばれていて、これが後の有楽町の呼び名に繋がっていきます。今の有楽町とはお濠という結界で隔てられていて、被ってはいないのですが・・・

涼しくなって散歩に丁度良い季節になりました。有楽町駅前広場から数寄屋橋交差点を経てコットンクラブまでの歴史を意識してのお散歩はいかがでしょうか?

202009


前回「有楽町で逢いましょう」と書きましたら、「旧い~!」と内部からのブーイングを受けてしまいましたが、それをあえて乗り越えてお散歩に出かけます(笑)
1957年(昭和32年)、現在ビックカメラさんが入っている読売会館が建ち、そのテナントとして有楽町そごうさんが開店した時にCMソングとして作られたのが「有楽町で逢いましょう」だったそうです。同名の映画まで作られたそうですよ。
日本にテレビが普及する大きなきっかけとなった平成天皇陛下と美智子さまのご成婚が59年ですから、当時のCMソングはラジオや街角放送で流れていたのでしょう。

今では当たり前の昇りと下りがX字型に配置されたエスカレーターは、当時は珍しかったそうで、しかも上の階には「よみうりホール」を擁しており、若い方々の新しい待ち合わせ場所だけでなく文化の発信基地にもなっていました。低音の魅力で唄ったフランク永井さんも25歳と若い!

何でも銀座寄りに考えてしまうコットンのスタッフとしては、今のマリオン辺りで待ち合わせする歌なのかなぁと勝手に想像していたのですが、有楽町駅ホームに立てば嫌でも目に入る徒歩0分の、しかも線路の反対側だったとは!
次回の有楽町は線路のこっち側を散歩しましょう。

202008


そういえばいつぞや瑶子ママが「四密を避けよう」と言ってました。
四つ目は何なの?と聞きましたら「密会」だそうです(笑)

「会う」「逢う」「遭う」「遇う」の違いを分類すると、
会う=計画のもとで、または偶然に、ある人物(複数でも可)と対面すること。
逢う=計画のもとで、または偶然に、大切な1人の人物と対面すること。
遭う=偶然に、嫌な出来事に直面すること。
遇う=偶然に、好ましい出来事に直面すること。
↑なるほど~、言われてみれば・・・ですね。

日ごろビジネスで頑張っておられるお客様は「会う」が多いかと。
銀座コットンクラブの好みはもちろん「逢う」でございます。

そんなことを書きながらも、頭の中では「あなたとわたしの合言葉、有楽町で逢いましょう♪」のフランク永井さんの低音が聞こえて参ります。
そういう訳で次回の散歩道は銀座とは切っても切れない街、有楽町でお逢いしましょう!

202004


東京の開花宣言から数日後に五分咲きの皇居周辺を歩いてみました。
日本が最も美しい季節に外国のお客様をお迎えできないのが残念ではございますが、それでも外周の歩道や北の丸公園ではしっかり根を張った大樹の見事な咲きっぷりはが、心を豊かに満たしてくれます。
満開の桜と花吹雪の中に身を置ける喜びは、私たちの宝物なのだと思います。

お客様各位もそれぞれのフィールドで頑張っておられると耳にすることが多いこのところではございますが、ホっとしたいお気持ちになりましたら、銀座コットンクラブの癒し空間にお立ち寄り頂ければ幸いです。

202003


コットンクラブの辺り。今ではご存知の通り銀座8丁目の一部ですが、
調べてみますと江戸末期は山王町。明治になると日吉町と名を変えています。
山王と日吉、どちらも延暦寺のある比叡山を護る神社で、全国にある「日枝」「日吉」「山王」といった神社の総本山の別称なんですね。
しかもコットンクラブと並木通りを挟んだ真向いは江戸時代には南大阪町と呼ばれ、並木通りを新橋方向に行くと難波橋。
おまけに、銀座の代名詞になった「柳」は、大阪方面から移住して来た人々が、大阪を偲んで植えたのは始まりと聞きます。
言って見ればリトル関西じゃないですか!

かつて日本の中心であった日本橋から東海道に沿って西側に集まったのは、望郷の念由来の自然な流れだったのかもしれません。

202002-2


国を超えて流行っている善からぬ肺炎と闘っていらっしゃる医療関係者さん、行政の皆さん。本当にお疲れ様です。

私たち銀座コットンクラブのスタッフも、自分たちの身を護りながらも、お客様への気遣いを一層高めようと心がけております。

町のお医者様に聞きましたら、この時期なのに患者さんの数が激減しているそうです。その最大の理由は、一人一人が予防の手洗いやうがいやマスク着用、感染に繋がる行動を控えていらっしゃるからだそうです。
衛生観念について「日本人は大げさ」「潔癖症」などと表現されるような記事を見ることもありますが、こういうときは潔癖症の国で良かったと思ってしまうのです。
 
で、銀座界隈はといえばあい変わらずに元気です。
そしてハッピーバレンタイン!
チョコレートがお好きな方もそうでない方も、女の子たちが心を込めて選んだ気持ちをお受け取り下さい。
お待ち申し上げております。

202002-1


今年から2月23日になった天皇誕生日。去年は休日としての天皇誕生日が無かったのでしたね。
お客様方のお仕事やプライベートに何か変化がございましたでしょうか?
(当コットンクラブは24日(月)は振替休日でお休みになります)
そういえば数十年前まではクリスマスから年始までの期間が私たちの心にイベント感を醸し出していたのが、いつの間にか暮れになっても押し詰まらないし、明けてもあまり目出たくない風潮になっていたように感じておりました。日本人に必要なメリハリが希薄になっていたような?
そんな中、昨年の暮れを前にコンビニをはじめとする販売業界に「元日をお休みにする」という動きが始まりました。
たった一日町が静かになるお休みが、このところ少し元気のなかった世の中にメリハリを与えて、活力に繋がっていってくれることを密かに期待しております。

201911-2


今年も皇居の中を歩きながら東京の秋を楽しめる「令和元年秋季皇居乾通り一般公開」がございます。
「皇居乾通り一般公開」は,平成26年に上皇陛下の傘寿を記念して初めて春季と秋季に実施したもので,大変好評であったことから,平成27年秋季から,毎年春季の桜の時期と秋季の紅葉の時期に実施しているものです。
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<皇居乾通り一般公開>
11月30日(土)から12月8日(日)の9日間
午前9時から午後3時30分(入場は午後3時まで)
更にこんな機会も。
<大嘗宮一般参観>
11月21日(木)から12月8日(日)の18日間
午前9時から午後4時(入場は午後3時まで)
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素敵な散歩道を散策された後は、銀座コットンクラブの癒し空間が目と鼻の先でお待ち申し上げております。

201911-1


川を埋め立てて造られた「銀座の西側を走る高架道路」で思い出されるのが、その下の「西銀座デパート」
また、海に近い方向に行きますと「東銀座駅」という地下鉄駅があります。
「西銀座」「東銀座」「銀座西」「銀座東」
スタッフもそんな地名があるのかなと?漠然としていたのですが、調べてみますと「銀座西」「銀座東」という地名は確かに存在していましたが、1968年には「銀座西」が、1969年には「銀座東」がそれぞれ「銀座」に統一されました。スタッフの記憶もあながち間違いではありませんでした。
もし今でも「銀座西」が生きていましたら、銀座高級クラブの代名詞になっていたのかもしれませんね。

201910


1908-1で触れました地味ぃな話題「銀座1丁目と京橋の間に、たった100mだけ存在するけど、短すぎて地図にも載らない首都高8号線」の続きです。
京橋から始まってJR方面に向かい、L字型に曲がって新橋辺りまでJRと平行している2kmほどの高架になっている(首都高みたいな)道路。普段は道路として認識していなくても、旧西銀座デパートやINZ等はその下にありますし、今はもうすっかり銀座の一部ですね。
あの高架道路は正式名称を「東京高速道路」と言い、有料の「首都高速道路」とは違う会社が運営している無料の道路です。
江戸時代から戦前まで銀座界隈に無数にあった川を埋め立てて利用する都の方針が打ち出された時、銀座界隈の有力者達は考えました。首都高ができてしまうと、道路法に基づく自動車専用道路になってしまうために、道路下が町のために使用することができませんので、有楽町や新橋と銀座が分断されてしまいます。
それでどうなったかと言いますと、自動車からは通行料を徴収できない一般道という扱いにして、その下はテナントへの賃貸料によって収益を得るということになりました。
この特別処置によって、道路下は銀座の賑わいの一部に組み込まれ、自動車はストレスなく通過することができるようになりました。
計画時には首都高の要所となる予定だった8号線は、銀座の高架道路が先に出来てしまった為にそれ以上延長する必要がなくなり、銀座の発展と引き換えにその名称も役割も埋もれてしまいました。

201909


銀座の柳の栄枯盛衰。
1968年。道路の拡張工事と共同溝の埋設によって完全に消えてしまった銀座の柳は、当時日野市にあった建設省(現在の国土交通省)街路樹苗園に移設され、生き残っていました。そういえば中央通りは国道でしたね。
移設された柳は土壌が合わなかったのか?三本までに減ってしまったそうで、それを憂いた有志の方々が挿し木という方法で苗を増やし、更に全国の有志の方々が受け継いで増やしていったそうです。
その柳が2006年にめでたく「銀座の柳Ⅱ世」として銀座周辺に凱旋することに!
お帰りなさい!
 
さて、中央通りから柳を追い出す原因となった共同溝ですが、実際にそれを見ることができます。
地下鉄銀座駅から松屋百貨店さんに入るA13番口の左側に「共同溝」と書かれたガラスの窓があり、大小のパイプ類の通る通路が見えます。ちょっと見、何の興味もわかない地下構造物ですが、銀座の柳の変遷を意識して頂くと幸いです。
松屋銀座さんもいろんな催し物をやっているようです。松屋さん20:00の閉店後は、銀ぶらの仕上げにコットンクラブがお待ち申し上げております。

201908


いつかは書こうと思っていた地味ぃな話題の前編です。
首都高を運転していますと、8号線だけがどこにも見当たらないことにお気づきでしょうか?
実は銀座1丁目と京橋の間に、たった100mだけ8号線は存在するのだそうです。
でも、あまりに短すぎて標識や首都高地図にも載せようがないというのが理由とか?
その辺りを走っていても歩き回っても標識ひとつないのですね。散歩していても心動かされる景色はございません。
これには銀座を守り発展させることに力を注いだ名もなき偉人達の努力がありました。
首都高8号線がどうして短くなってしまったのか?次月は銀座の街を道路で分断させることなく、むしろ道路を銀座という街の機能に組み込んでしまった先人達のお話です。

201907


3か月振りに「銀座の柳」の話題です。
江戸時代に大阪から移住して来た人々の手によって植えられた柳も、1874年に桜などに植え替えられ、その3年後(1877)には水分の多い土地故の問題から植樹は失敗し、また全て柳に植え替えられることになりました。
ですが、1921年には銀座通りの拡幅工事が行われた際には、銀杏に植え替えられてしまいます。その原因として挙げられているのが、垂れ下がった柳の葉が女性の顔を直撃してしまう為に、お化粧の敵となってしまったということ。当時のメイクは取れやすかったですからねぇ・・・納得。
それまで40年間という一世代を経ていた銀座界隈には、柳への思慕が根強く残っていたようで、1932年には朝日新聞からの寄贈で柳が完全復活します。「東京ラプソディ」や「東京音頭」で歌われるなど、柳は銀座のシンボルとして定着していきます。
最後の受難は、1968年に行われた電気・電話・水道・ガスなどのライフラインをまとめて道路などの地下に埋設するための共同溝工事でした。これによって銀座通りは青空を手に入れる代わりに柳は消え去ってしまいます。
その後数十年を経て、柳が銀座周辺に戻って来るにはまた別の物語があるようです。

私たち銀座コットンクラブ一同にも、銀座を形成している一員という自負があると同時に、銀座を作り上げてきた方々の思いを抱きながら、外堀通りの柳を見上げています。

201905


今年の桜はいろんな好条件が重なって、とても長持ちしましたね。
私たちが満開の桜を目出ている中で新元号「令和」が発表されました。
桜見物で千鳥ヶ淵から銀座まで歩いてみましたが、外国のお客様の方が多くて、本当に良い時期にいらっしゃったものです。
二重橋前にたどり着いた夕刻には、「平成最後の皇居の桜 乾通り一般公開」の入場受付の天幕が残っているだけで、おそらく数十万を超える入場者が並んでいたであろう皇居前広場には静寂だけが漂っていました。(次回の乾通りの一般公開は紅葉の秋です。)
コットンクラブから徒歩で行ける距離に、こんな素晴らしい場所があるなんて、ちょっと誇らしい気持ちになりました。
素敵な散歩の後は、癒しの仕上げにコットンクラブへお立ち寄り頂いて、散策のご感想などお聞かせ頂ければ幸いです。

201904


よく桜の木が土手に植えられているので、てっきり桜の根が張って堤を補強しているのかと思いましたら逆でした。江戸時代の土木工事で土手を築いた後、桜を植えることで見物客に大勢で土手を踏み固めてもらうというアイデアだったそうです。
さて以前、コットンクラブに一番近い交差点「難波橋」の由来について書きましたが、この辺りが運河だった頃は大阪から移住して来た人々が多く、故郷の堺は八百八橋と言われるようにやはり運河が多かったようで、水際には湿地に強いヤナギが植えられていたようです。
1874年には桜・松・楓が銀座通りに植樹されましたが、埋め立て地の銀座界隈は水分が多くて根腐れしてしまい、たった三年後には実績のあるヤナギに植えかえられてしまいました。
この後は街路樹としてのヤナギと桜の攻防の歴史がありました。続きます。

いよいよ新天皇即位に伴い4月27日から10連休になります。
当店の営業日はホームページでお知らせ致しますので、ご予定がございましたらご確認の上ご来店下さいますようお願い申し上げます。

201903-2


先日、東銀座から三浦半島の終点駅・三崎口まで乗ってみました。
駅から少し歩きますが、線路沿いに河津桜の名所があります。
伊豆の河津で発見された突然変異の、たった一本の早咲き桜から全国に広がったそうです。
そういえば観光ポスターに出てくる河津桜には、必ず足元に黄色く咲き誇る菜の花が鮮やかに彩っていますね。
可愛いピンクと鮮やかなイエロー。季節の偶然とはいえ、素敵なコラボです。
「花にだんご」・・・みたいな?
コットンの桜まつり。二つの花(桜と女の子)・お団子・宮内庁御用達のお酒がお待ちしております。

201903-1


「なびくヤナギを見れば風が見える。」
銀座のシンボルと言えば?「ヤナギ」という方も多いかと思います。
かつて銀座の街路樹はヤナギでしたね。
数多くの楽曲にも歌われた銀座のヤナギも、ロスプリモスのヒット曲「たそがれの銀座」が巷に流れていた1968年に殆どが伐採、または23区外へ移植されてしまいました。
今「銀座柳通り」という愛称で呼ばれているのは、銀座1丁目3番から2丁目11番に至るL字型の道ですが、これは「銀座にヤナギを取り戻そう」という有志による植樹なんですね。
現在の柳通りを歩きながら、セピア色の往年の銀座通り思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

201902-2


とっても寒いので、散歩がお休み続きになってます。
それでも銀座には外国人観光客の方々がたくさん歩いていらっしゃいますね。みなさん日本のホリデーを心行くまで楽しんで頂きたいものです。
そういえばすっかり定着している「ハロウィン」「クリスマス」「バレンタインデー」が、日本では本来の主旨と違っているのは、その時期においでになった方々(特に欧米)にはどう映っているのでしょうか?
「ハッピーな異国体験」として、楽しい思い出話をお持ち帰り頂きたいものです。

ハッピーバレンタイン!
チョコレートがお好きな方もそうでない方も、女の子たちが心を込めて選んだ気持ちをお受け取り下さい。
お待ち申し上げております。

201902-1


先日通りを歩いていましたら、深夜バスの停留所を見つけました。
以前から耳にはしていましたが、時間が合わないので乗るチャンスがないのです。
早速ネットで調べてみたところ、24時台に一本ずつ、
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■マリオン前から
柏・我孫子
■数寄屋橋交番横から
ユーカリが丘
印旛日本医大駅
JR成田駅
蘇我・稲毛
ちはら台・五井
■東京メトロ銀座駅B5出口前から
八王子・高尾
福生・河辺
三鷹・吉祥寺
■新橋から
大船・鎌倉・逗子
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こんなにあるんですね。
ご参考になりましたら幸いです。

201812


世の中は「平成最後の〇〇」という言葉が溢れているようですが、天皇陛下の一番のお役目は「世の安泰」を祈ることだとお聞きしたことがあります。私たちが神社やお寺で祈願していることを、代表してやってくださっていたのですね。
銀座コットンクラブから皇居前までは徒歩でも行ける距離ということもあり、ほんのりと天上人への親近感を抱かせて頂いております。
その皇居の一部を見学できる「乾通り一般公開」の今年は、平成30年12月1日(土)から12月9日(日)までの9日間(入場時間は午前9時から午後3時まで)ということです。
この機会にご覧になってはいかがでしょうか?

201811-2


再び江戸時代の地図にタイムスリップしてみますと、「銀座」が正式な地名になったのは明治2年からでした。
そのころ当コットンクラブのある辺りはまだ「丸屋町」「日吉町」「八官町」と細かく分かれています。
1930年(昭和5年)の区画整理でコットンクラブの辺りも銀座西8丁目となります。(大通りを挟んで反対側には銀座東もございました。)
その後、西の1文字が外れて現在の銀座8丁目になったのは1968年(昭和43年)の区画整理からでした。
仮にもし「銀座西」のままだったらイメージが何か変わっていたのでしょうか?そんなことを想像しながら、これからもコットンクラブは「銀座」のブランドを大切に護っていきたいと思います。

201811-1


前回の築地で思い出しましたが、
コットンクラブと同じ銀座8丁目には、踏切信号機(踏切の跡)がオブジェとして残っているのをご存じでしょうか?
(場所は銀座郵便局の並びで、ベルサール汐留の向かい。浜離宮の入り口のすぐ近くです。)
この踏切信号機は、昭和6年から昭和62年(1987)までの56年間、国鉄汐留駅と築地市場との間を結ぶ貨物専用線路の踏切として使用されていました。
全国の収穫物を運んだ貨物列車が直接、築地市場に横付けされていた往時の名残なんですね。
今や汐留駅の跡地はシオサイトになり、築地市場も移転してしまいましたので、この踏切信号機の役割は、東京の発展していった過程の語り部なのかもしれません。

201810-2


競りの元気な声が銀座にまで聞こえてきそうなくらい近かった築地市場が豊洲に移って行きました。
近いのでいつでも行けると思っていただけにちょっとセンチな気もしますが、
外野の私たちの心配をよそに、豊洲は初日から大賑わいのスタートだったようです。
築地場外は残りましたので買い物はオーケー!
しかもコットンクラブから少し歩いてゆりかもめに乗れば、遊覧気分で豊洲にも行けてしまうのですね。
そんなこんなで、今日も銀座は元気です。
お忙しいとは存じますが、癒しのひと時はコットンクラブでお過ごし下さい。
心よりお待ち申し上げております。

201810-1


知れば知るほど面白い銀座の今昔。
地図で確認しても普段歩いていても、銀座だけは碁盤目を細長くしたような整然とした街ですね。
江戸に居を構えた徳川さんの肝いりで整地された、埋め立て地だったようです。
調べてみましたら、当店が面している並木通りは、江戸時代から今の中央通り(メイン通り)に沿って発展していく過程で、ほぼ最初から裏道として使われていたそうです。
馬と籠と大八車と飛脚が行き交っていた昔の中央通りに対して、手まりで遊ぶ子供たちや縁台で囲碁を楽しむ八っつぁんや熊さん、物売りの掛け声で賑わっていたのでしょうか?
そんなことを想像しながらビルの間を抜ける涼しい風に誘われて、銀座周辺を歩くのが楽しみになって参ります。

201809


銀座通りと東銀座の間に三原橋地下街があったのを覚えていらっしゃる方はおられますか?
昭和27年に完成し「昭和の銀座」にタイムスリップしたかのようなテイストを色濃く残しながら、2014に閉鎖した商店街でした。(今は取り壊されています)
その三原橋地下街で最後の1店になってまで営業されていた「三原カレーコーナー」さんに先日お会いできました。
縁あってお祭りの神輿を一緒に眺めて練り歩いていたのですが、町内会さんからお声が掛かり、お先棒(神輿担ぎの先頭)をワッセワッセと担いでおられました。
銀座のレジェンドは御年80歳を過ぎてもお元気でニコニコ顔を崩さないのです。
今は新橋に移転して営業されていらっしゃいます。機会があれば、銀座レジェンドがキッチンから見ていた懐かしいお話や武勇伝などをお聞かせ頂きたいと願っています。
 
小さな植え込みから虫の音が聞こえて参ります。
いつの間にか日が暮れるのが早くなっていました。
長い夜には癒しのコットンクラブでお過ごし下さいませ。お待ち申し上げております。

201808


コットンクラブのある並木通り(一方通行)に首都高のある新橋側から入るとき、信号に書いてある交差点の名称「難波橋」にお気づきでしょうか?
幕末に近い安政の地図によると、現在の首都高に沿って江戸時代から水辺に蔵が立ち並ぶ運河でした。そこに本当に難波橋という木製の橋が架かっていたのですね。
当店ビルの通りの向かい側は「南大阪町」という地名だったことから、この一帯は大阪商人と扱う荷物舟が運河を行きかい、大いに賑わっていたのでしょう。
今は名称だけになってしまった難波橋ですが、コットンクラブにおいでになる時に信号を見上げて、一瞬の江戸時代へのタイムスリップを楽しんで下さいね。

201807


江戸時代、銀座があったくらいですから当然金座もあった!?
今の日銀の建っている場所(中央区日本橋本石町)がその金座跡なのでそうです。
銀より金の方が価値が高いのに、どうして愛称として銀座が残ったのかなと思って、維新当時の江戸っ子になったつもりで「きんざ」「ぎんざ」と声に出してみたら、はっきりした発音の大好きな江戸っ子には「ぎんざ」の方が粋に聞こえたからなのでは?と、勝手に結論してみました。
それ違うよ!と、そっとお教えして頂けるお客様、大歓迎です。

鬱陶しい季節ではございますが、そんなものに負けているコットンのお客様はいらっしゃらないですよね?忙しいお仕事の合間に、大人の癒し空間でお待ちしております。

201805


先月に続いて銀座の話です。
どうして銀座が日本一になっていったのかな?と思ったので調べてみました。
開国当時は、日本橋界隈が日本の中心地だったそうです。
日本の玄関ともいうべき横浜港と首都を結ぶ鉄道のターミナルが新橋(現在の汐留駅)にできたことによって、銀座は日本橋へと続くメインストリートとして不動の地位が与えられたことになります。
銀座というブランドを創ってくれた先人たちの歴史を訪ね歩くのも面白そうです。

GWの谷間ですね。
力いっぱいお休みしている方、お仕事に励んでおられる方。
いろんなお話を聞かせて下さいませ。
心よりお待ち申し上げております。

201804


江戸時代に銀の鋳造所が設けられたことから「銀座」という地名になったというのは知っていましたが、もう少し調べてみましたら、明治維新の数十年ほど前には2kmほど北東の今の蛎殻町に移っていたそうです。
それから200と数十年経っても愛称としての「銀座」は地名としてしっかり残ったんですね。
これからも折に触れて銀座のことを調べてみようかなと思っています。

世の中は新年度。
私たちコットンクラブ一同も、お客様のご活躍を癒しで応援させて下さい。
心よりお待ち申し上げております。


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